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偶然ネットで知人の歌手のスケジュール表を見ていたら、30日になんと鳩ヶ谷でライブステージがあると書いてありました。たまたまその方から別件のライブ情報件でメールの連絡が来た後だったので郷土自慢ではありませんが、どうでもいいようなメールを返信してしまいました。

私が鳩ヶ谷に住んでいたのは、年がばれるのであまり言いたくありませんが、昭和40年前後?から約10年以上でした。(曖昧な表現ですみません・・)個人的には生まれは大阪で、埼玉に移った後も小さい頃はかなり長い期間大阪に入り浸っていましたが、事実上鳩ヶ谷が出身地でもあり、育ったところといえるのかもしれません。

当時のことは記憶からかなり消えていますが、とにかく周りはほぼ完全に農業地域だった、という印象です。
住んだ場所は里というところの西公団という住宅でした。
ただ今の団地とちがい、2階建ての一応鉄筋ではありましたが、一軒一軒はせまい長屋風で、内装も白壁、木、石のたたき、くもりガラスというような造りでした。

住宅が出来たのは昭和33年で、当時は木造平屋やバラックしかない時代だったのでそれなりに新しかったのでしょう。
まだ鳩ヶ谷町だった時分の里という地区の端の、川口の西新井宿という地区との境の田んぼが切れて野山(安行など大宮台地の端?)が始まるところの丘の上に住宅は建っていました。
件数は120軒くらいで、公的な高校や病院以外は近所には田んぼと野山以外にはありませんでした。

子供は皆鳩ヶ谷小学校に通っていましたが、ほどなく山を降りた田んぼの中に里小学校ができて、私はそこに通いました。姉は2年までは鳩小に通っていました。里小はまわりはすべて田んぼで、通学の時は特に梅雨時だととにかくかえるの声がすごくうるさかったのを覚えています。

なぜそんなに遅れていたのかといえば、鉄道がなくどこの駅にもバスで30分くらいかかる場所でした。
同様に隣接している今も日本一の植木の産地で有名な川口市安行(昭和にはいり安行町から川口市に編入)やさいたま市緑区の大門(昭和40年手前くらいまで美園村でその後浦和市に編入。今はスタジアムのある浦和美園駅のある近辺です)なども武蔵野線が開通した後も農村のままでしたが、近年埼玉高速鉄道という都心直通の鉄道が開通すると急に大きく発展を始めました。

いつも出身は埼玉で、「ハトガヤ」というと「えっ?」「クマガヤ?」「コシガヤ?」といわれていました。
そして遂には平成の町村合併で消滅して川口市に編入されてしまいました。

育った頃は「陸の孤島」といわれていたようで、けっこう方言もありました。
人に会う時などは大阪弁は結構かっこうも評判もいいので、もとから関西の家系なのもあり幼少時に聞いていた片言の関西弁くらいはたまに調子に乗って話しますが、鳩ヶ谷で使っていた言葉は、結構はずかしく、いじめられるのではないかと思い、ほぼ完全に東京に来た時点で長年封印してしまいました。

近年方言ブームみたいなものがあって、懐かしさもありたまに口に出すようなことも出てきました。

距離的にあんな東京に近いのに、本当?
と思うかもしれませんが、本当です。それくらい周囲の地域と隔絶していました。

東京に転校していちばん驚いたのは、鳩ヶ谷では全校生徒で3〜4人くらいしか通っていなかった学習塾というものが、東京ではちゃんと近所などあちこちにあり、クラスの半分以上の人が当たり前に通っていたことです。
その時鳩ヶ谷では浦和とかの学習塾にバスで通っている生徒は、それを知られないように隠していたくらいで、ばれると「ガリベン」とか色々いじめられるネタにされていたくらいです。

10年位前に本当に久しぶりに仕事のついでに鳩ヶ谷に行ったときは、すでにもうありきたりな住宅都市になっていました。

今回のイベントも川口市鳩ヶ谷宿(昔日光御成街道の宿場でした)の〜イベントという、題名でした。

自宅だった住宅がすでに取り壊されていることもあり、懐かしい反面、少し寂しい気持ちにもなりました。

実際現在は鳩ヶ谷に関係した人はほぼ誰ともつながりが残っていません。
といいつつも他にも友達の絶対数が少ないので、もとからあまり多くのつながりはありませんが・・。