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そこ此処に記載していますが、私は生れは大阪、育ちは埼玉です。東京に転居してきたのは昭和49年夏で12歳くらいでした。

・旧型国電(72系電車)
このころは23区内では特殊な運用以外では旧型国電はほとんど見ることはできませんでした。
でも多摩地区や神奈川県の一部では表題の旧型国電最大の牙城である南武線をはじめ、青梅線、五日市線、横浜線、鶴見線、大手私鉄の支線などでは都心部や幹線から払い下げになった車両を中心に旧型電車が主力で運用されていたようです。

特に南武線は、私にとっては生活も含めてなくてはならないくらいの路線でした。分倍河原、矢川など家の比較的近所の駅から頻繁に利用していました。当時は登戸ー川崎間の電車も多く、登戸ー立川間は電車の本数も日中は約20分間隔くらいと少なかったのですが、個人的には重要な路線でした。公私に渡る用事で頻繁に行く立川、小田急に連絡する時に経由する登戸へは必ず南武線経由でした。今もそうかもしれませんが、旧型国電の72系電車は川崎市の中原電車区というところが本拠地のようでした。詳細は忘れましたが70両を超えるような旧型国電が配属されていた、と記憶しています。

ただ冷房もなく、当時は正直閉口していた部分もありました。しかし今となってはどんどん新車に置き換わり、あっという間に主力だった72系電車も全国で淘汰されてしまいました。というか、自分が年齢を重ねるにつれて、時の流れが早く感じるようになったのかもしれませんが・・。
いずれにしても、廃車になってから「ああ、もっと写真を撮っておくんだった」などと思ったものです。おそらく当時は通勤通学用に大都市で使用された全国でも最大級の両数があるような一般的な車両だったので急に淘汰されるとは夢にも思っていなかった、というのが当時の正直な感想です。

下の写真はすべて中学〜高校1年のころに時間の余裕のある時に、駅で撮影したものをスキャンしたものです。
※高校は野球部に入り、それどころではなくなったのでおもに中学3年の時に撮影したものです。

・ED16電気機関車
また写真でもありますが、南武線は、青梅線とともに当時はセメントの原料である石灰岩の輸送も大きな役割の一つでした。奥多摩は石灰岩の産地であり、そこから青梅線、南武線を経由して川崎など京浜工業地帯方面に輸送していたものと思われます。それは京浜工業地帯で使用されたのか、川崎など大きな工業用の港まで運んだのか、又は東海道線など鉄道の幹線で全国に運ばれたのかは、まったくわかりません。当時は10分〜20分間隔の電車以外に、石灰岩を積み込んだ貨物列車が頻繁に運行されていたようです。そしてこの貨物列車を牽引していたのが、山などでもまったく問題にしないパワーと機動性を持つといわれた最古参の電気機関車の一つであるED16でした。この電気機関車はかつては山岳区間など全国で活躍していたみたいですが、この時代以降はほぼこの青梅線、南武線の石灰岩輸送の専用電機として活躍していました。

この電気機関車は立川機関区という、ちょうど南武線の西国立駅の横にある小さな車庫を本拠地にしていました。
見た目は他の旧型電気機関車とあまり変わりませんが、なんと戦前製だったそうです。

矢川駅の72系電車(1977年ころ?)
南武線・矢川駅1b
南武線・矢川駅3b
南武線・矢川駅4

駅名不明72系電車(西国立駅?1977年?正直わかりません・・)
南武線・登戸駅8

登戸駅の72系電車(1978年?)
南武線・登戸駅9
南武線・登戸駅10
南武線・登戸駅12

川崎駅の72系電車(1977年ころ?)
南武線・川崎駅11

登戸駅の当時は川崎ー登戸間で運行されていた101系快速電車(1978年)
南武線101系快速・登戸駅13

ED16電気機関車(立川機関区・1977年?)
南武線ED16電気機関車・立川機関区5南武線ED16電気機関車・立川機関区6
南武線ED16電気機関車・立川機関区7

ED16電気機関車(分倍河原駅・1978年?)
南武線・ED16分倍河原15

南武線72系のさよなら運転の電車(1978年・分倍河原駅)
南武線72系電車さよなら運転2・分倍河原駅(1978年)16
南武線72系電車さよなら運転・分倍河原駅(1978年)14

中にはお見苦しい写真があることをお詫びいたします。

また写真は前述のようにすべてサイト管理者が撮影したものをスキャンして掲載しています。無断での転用、転載を固く禁じます。