サイト運営者日記「ぶらぶらうだうだ」&レトロ中心鉄道のコラボサイト

「タウンクリニックドットコム・時代文化ネット」を運営をするアナログ管理人の日記&趣味のレトロ中心の鉄道のコラボサイトです。

(最新更新日:2024年3月16日 掲載日:2008年11月19日)

2008年にスタートした「アナログなサイト管理人日記」と「レトロ中心の鉄道サイト」のコラボサイトです
特急はくたか豪画像1・越後湯沢駅

趣味のレトロ中心の鉄道の話題を中心に、サイト管理人が以前勤めていた証券など金融、競馬、野球などテーマにこだわらない雑感や日記を綴ったコラボサイトです。サイト管理人は2007年から地域情報サイト「タウンクリニックドットコム」を立ち上げ、2014年頃から同時並行で独自の文化資料やテーマ等で文化記録を目指す「時代文化ネット」の運営管理者です。(実は超アナログ人間ですが・・・)

当サイトの本文中の画像、文言等は諸法律に沿って使用しております。またタイトル画面は埼玉県幸手市権現堂(本人が撮影:2012年4月)。またすぐ上の写真は越後湯沢駅に停車中の特急はくたか号(本人撮影:2013年3月)。いずれも無断での転載、転用をかたく禁じます。


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#特急はくたか

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新曲「舞姫」の動画

新曲「舞姫」のMV
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さてここからは鉄道の記事です。

ー北陸の鉄道写真2・2010・2特急はくたか号と特急雷鳥号ー

厳密に言うと表題の2列車とも現在(2023年)は存在しない列車です。

というのも前者の「特急はくたか号」は北陸新幹線が開通すると同時に越後湯沢ー金沢間の特急列車としては廃止になりました。そして同時に北陸新幹線の各駅停車(東海道新幹線のこだま号のようなスタイル)の愛称として継続されました。
さらに後者の「特急雷鳥号」も雷鳥という愛称を英語化?した「特急サンダーバード号」として基本的に車両も最新の車両を使用した特急として生まれ変わりました。これはかなり前から少しずつこのようなスタイルに変えていったみたいですが、写真はわずかに残っていた485系の「特急雷鳥号」の写真です。
大阪ー金沢・富山間を走る新幹線以外では日本でも指折りのメジャーな特急列車として君臨してきた「特急雷鳥号」です。私も過去に大阪から金沢に行く時に利用したことがありました。その時はこのような経緯をたどるとはまったく思っていませんでした。

写真はともに2010年2月に撮影した、「越後湯沢駅での特急はくたか号」と「金沢駅に停車中の特急雷鳥号」です。また似たような写真も含まれますが金沢に行った時の鉄道関係の写真を順次紹介しようと思っています。
※ちなみに3枚目の雪景色は「豪雪の越後湯沢駅の風景」です。いつも真冬はこんな感じです。逆に雪のないこの駅の姿にはあまり慣れていないくらいです。

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タイトルの表現が若干オーバー気味だったので適切な文言に修正しました。(修正:10月20日13時10分)
急行能登号489系電車画像1

上野駅に停車中の急行能登号(2008年に本人が撮影)
両親とも金沢の家系
私の家系は複雑で説明すると長くなるので端折りますが、どちらも本家は金沢で、同じ高校の出身です。でも父は生まれと少年時代は中国でした。しかも日本への引き揚げ以降は父以外の家族はほぼ大阪に住んでいました。今も親戚は大阪と金沢に分かれています。また私個人も実際に金沢には住んだことはありませんが、本籍地は結婚まで金沢でした。そして事あるごとに身内や親戚の慶弔ごとや法事など諸々でコロナ前までは頻繁に金沢に行っていました。

でもなぜか中学までは金沢に行った時はありませんでした。それはとても不便だったからという理由が大きかったと思います。実際金沢の人は都会に就職や進学する人の多くは関西方面です。私の父も就職は大阪でした。就職して数年後に東京に転勤してきたのだそうです。そんな事情も関係あるのかもしれません。

知人などは「実家や墓関係が金沢のような観光地なのでうらやましいよね」などとよく言われました。でも「上越新幹線」の開通や、さらに越後湯沢〜直江津間をショートカットする「ほくほく線」が開通するまでは本数も少なく、時間もかかりました。優等列車網もあまり整備されていませんでした。要は金沢に行くのは結構大変でした。

当時の東京ー北陸方面の列車事情
実際に行かなくても、子供のころから時刻表などでよく調べていましたが、最初に見た当時は昼行の直通は上越線経由(長岡経由)の「特急はくたか」くらいしかなかったと記憶しています。もしかしたら客車急行の白山というのがあったかもしれません。たしか「はくたか」は上野を午後に発車、金沢には夜10過ぎに到着というダイヤだったと思います。つまり東京の人が金沢に行くというような前提ではなかった、という感じです。

その後「特急白山号」(信越線経由)が新設され、「特急あさま」と同じ系統になったのか、一時は「あさま」と同じグループでL(エル)特急になっていたと思います。そして何年かするとL特急効果か?「白山号」は増発され一日2便になったように記憶しています。でもその程度でチケットを取るのも大変でした。

また夜行では上越線経由の「急行北陸1・2号(1号は福井行)」と信越線経由(長野経由)の急行越前(福井行)というのが走っていたと思います。寝台列車(ほぼ全車指定でほぼ全部が寝台車というグレードが高い列車)は「北陸2号」だけで、あとは申し訳程度に寝台車やグリーン車、普通車指定席を連結して編成の多くは普通車自由席車両の列車だったように記憶しています。もちろん寝台列車の「北陸2号」も含め旧型客車の編成でした。(ただ寝台車は当時としては旧型では新しい10系だったと思います)

金沢に最初に行ったのは中学卒業の時です。

中学の友達と金がないので普通列車で、高尾〜松本〜糸魚川〜富山(翌日)〜金沢というコースでした。松本までは都会の電車でしたが、あとは旧型国電や、古ぼけたディーゼルカー、ニス塗りの旧型客車の
連続でした。金沢の親戚の家や駅の待合室、ビジネスホテルなどを転々としていましたが、しまいには福井駅の待合室に深夜までいたら、駅前の交番のおまわりさんに補導されてしまいました。しょうがないので夜中に出る「急行立山号」に乗り京都まで行き、やっとそこで別の友人と会いました。

そしてやっと本題の夜行列車の話になります。

最初にこの夜行列車に乗車したのは昭和54年の夏でした。

金沢〜上野間の「急行能登号」(北陸が特急格上げのため改名)だったと思います。当時はまだ寝台車、グリーン車、普通車指定席・自由席の混成の編成だった旧型客車の列車でした。私が乗ったのはグリーン車で車体には旧型客車の窓の下あたりにグリーンのラインが入っていました。また車内はシックな造りで座席は赤いモケット貼りで結構ゴージャスな感じでした。その時は大阪から急な事情で特急雷鳥で金沢に行き、そしてちょうどいい東京行きもなくこの列車があったので乗車したという感じでした。なぜ寝台車に乗らなかったか?というと、当時のB寝台の幅は52センチで、3段式の上段などは寝返りも打てないような幅だったのを時刻表等で知っていたからです。夜行列車も事実上初めてだったので、ある意味興味津々でした。

グリーン車のリクライニングは意外に深く倒れ、結局ぐっすり寝込んでしまい、目が覚めるとほぼ東京の近くでした。

2度目に乗車したのは昭和60年の暮れです。

友人と大学を卒業する前(昭和60年)にたしか「急行能登号」か「特急北陸号」かどちらかに乗車しました。どちらだったかは正直おぼえていません。寝台車はブルートレインでした。当時は多くの寝台車が14系という当時は2段式のB寝台で、ベッドの幅が70センチになった新型車両でした。ということでかなり快適な夜行になりました。

次に乗車したのは従兄の結婚式の時の平成3年のゴールデンウィークです。

ちょうど競馬の当時のダービートライアルのNHK杯の週でイブキマイカグラが勝ったのをおぼえていました。

往きは「特急北陸号」で、帰りチケットが取れず以前同様に急行能登号でした。
すでに前回の流れで車両のことはわかっていたので、混む時期なので迷わず事前にB寝台のチケットを取りました。当時もまだ昼行の便は不便で、「特急はくたか」(上越線)、「特急白山」(信越線)2本か、上越新幹線長岡乗換、東海道新幹線で名古屋か米原乗換くらいしか便がなく、夜行で往復しました。

当時往きの「北陸号」の個室は珍しく、B個室でも結構豪華な設備だと思いました。また車掌さんから配られた「カードキー」など?を長らく持っていました。(今はありません・・)

ただ帰りは激混みで、明け方に寝台車でトイレに行くとデッキ越しに普通車のデッキが見えたのですが、人がデッキで複数立っているくらいでした。立ったまま夜行列車に乗っていたのでしょうか

そして平成6年に結婚して、その報告と墓参りに行った時も片道は夜行列車を利用したはずです。
しかしその時の記憶はあまりなく、多分片道は「急行能登号」の寝台で行ったような気がします。

ここまでは数年に一度程度でしたが、平成9年から状況が一変します。

というのも、平成9年、11年と続けざまに祖父母が他界しました。葬式は大阪でしたが、墓は金沢なので納骨、一周忌、三回忌がそれぞれ連続して金沢で行われました。

でもその時はすでにほくほく線が開通していて、昔上野発だった愛称の「はくたか号」がそのまま上越新幹線・越後湯沢〜金沢間の特急になっていました。しかも1〜2時間ごとに走っていたので、スピードだけでなく、便数も増え、昼間は大変便利になりました。個人的にもすでに平成元年に実父が病気の関係で体が不自由だったので、家族で移動するときはすべて「新幹線〜はくたか号」という流れになりました。

ただ一人で金沢に行く時は仕事が終わってから乗れるので、ふたたび頻繁に夜行に乗るようになりました。

その後は前述の法事の他に、金沢に住んでいた父の弟が病気になったり、そして亡くなった以降の法事、また子供のように可愛がってくれた祖母の弟の夫婦が亡くなるなど、回数を勘定できないくらい金沢に行きました。その時も一人で移動するときはことごとく夜行列車を利用しました。その時に大変お世話になったのが「北陸往復速達きっぷ」という割引きっぷです。

「新幹線〜はくたか」、もしくは「北陸号」のB寝台かB個室のどちらかで金沢方面を割り引きで往復できるきっぷでした。

父がいる時は往復昼行で、しかも父が車椅子だったのでグリーン車用でした。また一人の時はたいてい往きは「北陸のB個室」、帰りは「はくたか号〜新幹線」でした。

さらに父も2013年に他界してしまい、また金沢に行く機会が増えました。

いずれにしても北陸の用事はなぜか冬ばかりで、途中の親不知付近と、これは乗車区間ではありませんが金沢〜福井間の手取川橋梁付近が、しょっちゅう強風で大幅に遅れます。ひどい時は、これは帰りでしたが、北陸号に乗っていたら2時間くらい遅れてしまい、もう6時くらいなのにまだ高崎の手前でした。するとアナウンスで、上越新幹線に無料で乗り換えができます、と流れました。

面倒くさいのでそのまま乗っていると、車掌が個室にやってきて「早く用意して、高崎で乗り換えてください。もうあなただけですよ」といわれました。聞くとこの先通勤区間なので、仮に私が降りないで運行を続けると何時に上野に着くかわからないということでした。私が降りれば高崎で運行を打ち切ることができる、ということでした。

そこまで言われたら、降りるしかなくなり、混雑した2階建ての新幹線に乗り換えました。そうしたら朝なので新幹線でトイレに行きたくなりました。通勤客も含め皆同じ様で、トイレはどこも行列状態でした。トイレにやっといけてほっ、としたら東京という感じでした。

489系電車の急行能登号のこと
あと時計が若干前後しますが平成13年の冬には、久しぶりにやはり会社の友人と一緒に「急行能登」に乗りました。

その時は「能登号」はすでに寝台車はなくなり、車両も489系電車になっていました。上野から糸魚川まで乗車したのですが、上野発の時間が手ごろだったのか、通勤帰りの酔っ払いが大量に乗っていて、私たちはグリーン車に乗車したのですが、グリーン車も通路まで酔っ払いでいっぱいでした。そして中には空いた席に座ってしまい、寝込んでしまう人がいました。

そしてやっと空いて、夜中にトイレに行こうとしたら、ちょうど上越国境付近あたりのようで、古びた電車のデッキはすきま風がびゅんびゅん入り込み、デッキや車両のつなぎ目には少し雪が積もっていました。

また乗車ではありませんが、仕事でいわきから帰り上野に着くと必ず「急行能登号」が上野駅のホームに止まっていました。

すでにボンネットの489系でした。当時はすでに能登号にはあまり乗らなくなっていたので、ホームで写真を撮っておきました。冒頭の写真がそれです。

総括
今はすべて夜行も在来線特急としての「はくたか号」も廃止され、北陸新幹線が頻繁に北陸と東京を往復しています。2〜3年後には敦賀まで延伸するようです。となると今まで共通していた当たり前だった「金沢始発」ではない列車が多くなる可能性があり、これはあまり経験がないので、不思議な気持ちになります。

以前は客車列車天国だった北陸線も、その後は475系など国鉄型電車の天国になりましたが、今は金沢以東は第3セクターになったばかりではなく、泊〜直江津間は電車も走っていません。
様変わりしてしまい、さみしい限りですが、これが時代の流れなのかもと思います。

※上記記事は2021年10月に当運営者が別サイトに掲載した記事を一部改修して移設して掲載したものです。

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