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まだ私が小学校4〜5年くらいのころだと思いますが、いつも夏休みになるとずっといた大阪府豊中市の祖父母の実家にいた時のことです。いつもは母と姉と私だけだったのですが、めずらしく父も来ていて、さらにめずらしく「海水浴でもいくか」と言いました。自分の実家なのに仕事の関係もあり、めったに顔を出さないばかりか、やはり仕事が不規則な上に多忙だったので、家族旅行もほとんど行ったことがなかったのに、意外にあっさり出た発言でした。

海水浴と言えば、当時は小さい頃やはり千葉の九十九里海岸に行ったことがあり、また父抜きでは父の妹の家族が知多半島に住んでいたので、大阪からわざわざそこに行ったくらいでした。

めったにないことなので、父の気が変わったり、急に仕事が入ったりしないうちに、と思い、姉も私も賛成しました。

場所はと言うと、「琵琶湖」と「洲本」はどっちがいい?と聞かれました。
「琵琶湖」は知っているけど、「洲本」ってどこ?と思い、「琵琶湖」と答えました。

でも実際に行ったのは「洲本」でした。
大人になれば皆ご存知と思いますが、「洲本」は淡路島でした。

途中の経過や、詳細は忘れましたが、実はすでに「洲本」の旅館まで予約してありました。
それが行くことが決まってからなのか、事前にその予定だったのかは今となっては判然としません。

ということで出発しました。
まず阪急電車で十三で乗り換えて、三宮に出ました。
そして神戸港から船で、淡路島に渡りました。
船は大きくありませんでしたが、大阪湾や瀬戸内海なので穏やかで、楽しい船旅でした。

そして1時間半くらいで洲本港に到着しました。
着てみると、船旅があったりで、こちらでよかったと思いました。

洲本は海水浴場がある海岸沿いに旅館などがならび、そこにすぐに低い山がありました。
旅館はたしか「三熊館」というところで、結構大きな旅館でした。
けっこう観光地なんだな、と思いました。

海はあまりきれいではありませんでしたが、波は穏やかで、さらにわりと遠浅に感じました。
ただ海に入ると、一旦少し深い、脊の立たないところがあり、そこをこえるとまた浅瀬になり、不思議な感じでした。

またクラゲがすごく多くて、最初は海に入っているとたくさんいて、気持ち悪い、と思っていましたが、そのうち慣れました。
それからヤドカリなどもたくさんいました。

そして時間はあっという間に過ぎて、帰りの船に乗ることになりました。
神戸に戻るのか、と思っていたら、理由はわかりませんが、和歌山の深日(ふけ)港に行く船に乗りました。

船は往きとちがい、紀伊水道を通っている関係か、結構ゆれました。
船も神戸からの船より、小さかったように感じました。
そしてゆれは縦というよりは横に揺れたような気がします。

しばらく走り、すでに暗くなり、船はやっと深日港に着きました。
すこしホッとしました。でもこれからまだ長い道のりでした。

当時は南海電車に深日港から、灘波に行く急行のような列車があり延々とそれに乗りました。
「こうや号」みたいにロマンスカーみたいな列車ではなく、中長距離列車仕様の席でしたが、普通の車両でした。

灘波から御堂筋線・北急で桃山台に出て、さらにバスでやっと夜遅くに帰宅しました。

父と旅行に行ったのは、その後も何回かありましたが、父が50代で病気で倒れしょうがい者になるまでの、健常者の父と旅行に行ったのは、以後これ以外には2回しかありませんでした。

それにしてもあの唐突な「海水浴に行こうか?」という言葉は「どういう気持ちだったのか?」が今でも不思議です。

当時はそのような家庭はすごく多かったと思いますが、その時の言葉の中にあった父の気持を知りたいと、今でも思っています。

旅行って、どこに行ったか、よりどんなシチュエーションで、誰と行ったか、とか誰と出会ったか、のほうがよほどよくおぼえていて、重要な話なのかもしれません。

このお題を見て、何かあるかな?と考えていたら、普段は忘却の彼方になっていた、このことを思い出しました。

ちなみに父はしょうがい者になってからは、逆に車いすが乗る車を借りたりしてわりとよく旅行に行くようになりました。

そして24年間はそんな生活が続き、父は平成25年に他界しました。

当然そんな当時のことは私も忘れていて、彼が存命中にそのことを聞くことすら、忘れていました。
※失語症もありましたが、人の話はちゃんと聞ける状態でした。

区分9b

話は違いますが、
私は「タウンクリニックドットコム・時代文化ネット」では複数のサイトで様々な文化情報というと、立派ですが、自分の記載したい分野の情報を発信しています。ちなみに近々に下記の情報を別サイトにアップしました。もしよろしければ・・。