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※画像はサイト管理者が1978年夏に長野県を旅行した時の写真をスキャンして掲載したものです

ー長野県の旧型国電など懐かしの鉄道写真(1978年)ー

私が高校1年の時に高校の同級生2人と3人で長野県に旅行に行きました。
当時は野球部に入っていましたが、夏の大会が終わり、秋の新人戦の練習になる前に何日か休みがあり、その期間を利用しました。皆資金もないので「信州ワイド周遊券」を利用して鉄道を乗り回しました。私は願ったりかなったりでしたが、他の友人は鉄道にはまったく興味がなかったので、結構苦痛だったかもしれません。宿も基本的には当時は一番安く宿泊出来た「民宿」を利用しました。でもそれぞれが特色があり、今考えれば面白かった、と思っています。

私たちはみな多摩地区、そのころは京王沿線に住んでいたのでまずは京王線で高尾駅に向かいました。
そして高尾発の中央線の普通列車に乗り込みました。最初の宿泊地は「小諸」です。ということは小淵沢で小海線に乗り換えです。

小海線は日本一の高地を走る鉄道で、中学の林間学校で清里に行ったことはありましたが、観光バスでした。その後社会人になってからもスキーや旅行でたびたび行きました。でも野辺山や小海から先に行ったことはあまりなく、特に鉄道で全線を走破したことは後にも先にもこの時だけです。
小海線1キハ52小海線2キハ52
車両はまだキハ52が運用されていました。
私は知識はあまりありませんが、以前は地方のローカル線では普通に走っていた車両だったと認識しています。小海線に乗ったこと以外、当時の記憶はあまりなく、小諸で懐古園などを見物して、駅や街からはかなり離れた民宿まで20分くらい歩いたと、記憶しています。歩いているうちに田んぼの中の道になり、「本当にこんな場所に泊まるところがあるの?」と感じたことは記憶しています。
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翌日はまた電車で長野方面に向い、篠ノ井で乗り換え、今度は松本方面に向かったと記憶しています。
まず小諸から普通列車に乗りましたが、途中上田駅で写真のように上田交通(現上田電鉄)の車両が留置されていました。今は懐かしい車両ですが、当時はまだ旧型車が普通に運用されていました。
上田交通1978年1上田駅

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松本から乗り換え大糸線に乗車しました。
松本は中学の友人に両親が松本の農家出身の人がいて、中学2年の時にわざわざ大阪から松本まで、友人の両方の実家に泊まりに行ったことがありました。空気がよく、水がきれいで、そして眺めもいいという印象でした。
大糸線旧型国電1信濃大町駅大糸線旧型国電2信濃大町駅
そして大糸線は当時は飯田線、身延線と並ぶ戦前製の旧型国電の三大牙城でした。
一部の鉄道の本にはこの3線区で運用されている車両の解説入りの表が載っていたくらいです。
大糸線は旧型国電はすべて水色の塗装になっていました。また中央東線を中心に東京などから優等列車も乗り入れていました。もちろんこれらは当時では新しい車両が多く、そのギャップも楽しめました。
また大糸線内の普通列車にもこれらの優等列車に使用した車両の合間運用で、165系などの車両が使用されていたようです。写真は信濃大町駅で撮影した旧型国電です。
大糸線旧型国電3信濃大町駅

また165系は翌朝に宿泊した木崎湖に近い、信濃木崎駅で撮影した急行列車です。
その後この列車が信濃木崎に停車してこの列車に乗車したのか、この列車は信濃木崎は通過で、この次の普通列車に乗車したか、記憶が判然としていません。いずれかで松本に戻り、今度は木曽方面に向かいました。
大糸線165系1信濃木崎駅
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木曽地方は当時は「木曽十一宿」という触れ込みで「妻籠宿や馬籠宿」を中心に若い女性などに人気があり、かなりの注目スポットでした。中央西線沿いの深い木曽川の谷沿いの中山道に昔のままの佇まいの宿場がたくさんありました。前述の「妻籠」や「馬籠」の他にも、保存度と規模では群を抜いていた「奈良井宿」があり、また上松町には木曽谷随一の景勝地として「寝覚ノ床」という奇勝もありました。(もちろん今でもそのままありますが・・・)

夜の宿は、木曽十一宿の一つ「須原」の旅籠だった古民家をそのまま利用した「すはら」という民宿を予約してありました。途中の電車は忘れましたが、午後にはこの地域の観光の目玉である「妻籠」や「馬籠」に到着しました。そして夕刻には写真のように「妻籠宿」の最寄駅である南木曽駅に着きました。

当時中央西線は名古屋から中津川までは一部は新性能車の快速も走るような通勤線区になっていましたが、中津川ー塩尻間はまったくローカル線で、普通列車は2時間に1本くらいしかなく、逆に当時は最新だった振り子型車両の「特急しなの」や「急行きそ」など優等列車の本数のほうが多いくらいでした。多分今も同じ状況だと思います。ただ当時は前述のように観光地として注目されていたので、観光地の最寄りの南木曽駅には一部の「特急しなの」が停車していました。今もその流れは続いている思いますが、木曽谷の観光は当時より今の方が地味になった印象です。

個人的にはその後も大学時代の民話の取材やツアー旅行でこの近辺を訪れたことがありますが、日本では屈指の昔の風景が残された街並みを楽しめます。個人的には不思議です。
中央本線旧型国電80系2南木曽駅中央本線旧型国電80系1南木曽駅
写真は当時中津川ー塩尻間で普通列車に運用されていた80系です。いわゆる元祖の「湘南電車」の車両でもあり、日本の鉄道史に残るような車両です。このころはまだ主要線区でもローカル区間を中心に80系電車が全国で走っていました。中央西線も例外ではなく、この区間を走る80系は「神領電車区」の所属の車両でした。
中央本線急行きそ号旧型客車1南木曽駅
それからさらにちょうど偶然に南木曽駅に急行きそ号が来ました。通常は気道車や電車ですが、唯一客車列車の運用が残っていて、ちょうどその列車でした。当時中央西線の客車急行列車は昼行ではこの列車と季節急行の「ちくま1号」だけでした。たまたま中学2年の時に友人の松本の実家に行って大阪に帰る列車で「ちくま1号」に乗車しましたが、自分の予想に反して冷房がガンガン効いている12系客車だったので、中央西線の昼行の優等列車では唯一の旧型客車列車に出会えることができました。

その晩は前述のように「民宿すはら」に宿泊しました。
今まで泊まった宿とは少し違い観光地らしい気分を味わえました。
夕食は居間のようなところで宿泊者が全員一緒でした。数百年は経っていそうな古い宿場の建物で、なんと中央には囲炉裏がありました。しばしタイムスリップしたようでした。
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そしてここからもあまり詳しく思い出せませんが翌日は塩尻経由で中央線に戻り、今度は当時日本最大の戦前の旧型国電の牙城だった飯田線沿線に向かいました。その晩の宿泊は伊那市の民宿で「小黒川温泉」という一軒宿でした。場所がわからないので伊那市駅から3人でタクシーに乗りました。景色はみるみるうちに田んぼばかりになりました。

伊那谷は木曽谷よりはるかに広く、南アルプスと中央アルプスを両側に望むような地域でした。
線名になった飯田市、他にも駒ヶ根市、伊那市などそこそこの規模の大きな町もありました。そして何よりも松本近辺の安曇野と同様に、高い山々を至近距離で見ることができる田園地帯が広がり素晴らしい景色でした。実は高校の同級生が一人駒ヶ根出身で、親戚もたくさん駒ヶ根にあったので、その2年後に泊まりに行ったことがあります。

さて問題の「小黒川温泉」は温泉宿というような旅館のようなところではなく、大きめの普通の建物でした。部屋はビニールのござ敷きで、すごく広い部屋でした。部屋には漫画本が散乱していて、読み放題でした。さらに忘れられないのは食事です。宿に人がいきなりカセットコンロを持ってきました。そして大きな皿に山盛りの「鶏肉」を持ってきました。そして「ご飯」を持ってきました。「ご飯」もすごい量で、宿の人は「肉もご飯も食べ放題だよ」と言っていました。当時は物価が安かったとはいえ、これで宿泊費が2食付で2700円だったのはおぼえています。

得したような、そうでないような、不思議な気分で、今まで経験しことのないような宿泊を経験できました。ある意味楽しく、しかもいい経験ができました。

でも民宿名にもある温泉には入ったのかどうかもおぼえていません。
そのような温泉らしい設備はなかったように思います。

飯田線旧型国電3伊那本郷駅
そして翌日は飯田線乗車デーのような一日でした。
写真のように途中の駅で交換を繰り返しました。
そして唯一の観光名所である「天竜峡見物」をしました。ガイドブックに従って駅名は忘れましたが手前の違う駅で下車して「天竜峡駅」までの間「天竜下り」の船に乗船しました。

当時は知識も情報もなく、「天竜下り」は「怖くて危険な船」という印象で考えていましたが、実際に乗ってみるとそんなに恐怖は感じませんでした。他の観光客も皆平気な顔して、むしろ楽しそうに乗船していました。
飯田線旧型国電4天竜峡駅
飯田線旧型国電1
飯田線旧型国電2天竜峡駅飯田線旧型国電5
そして下船後はまた長い飯田線の旅が始まりました。これから豊橋まで数時間乗りっぱなしです。途中までは広く景色のいい伊那谷ですが、南部は険しい山間の路線になります。そのかわり間近に渓谷や谷を望む違った意味での絶景路線になりました。というか「秘境」という表現のほうが適切かもしれません。一番下の写真はまるで旧型客車のようなニス塗りの車内の様子です。またある駅では留置線に全国の旧型国電の王者といわれていた流線形車両の元祖である「流電クモハ52」が留置されていました。戦前に製造され京阪神間で活躍した車両です。残念ながら、当時は写真を撮ったつもりでしたが、現在はすでに写真は持っていませんでした。
飯田線旧型国電6
そんな長い乗車も終り、終点の豊橋に到着しました。
すでに夕方になっていたので、そこからは新幹線で東京に帰りました。
乗車したのは「こだま号」でしたが、今までとは格段のスピードで、目が回るくらいでした。

こだま号の特急券代はかかりましたが、一貫して普通列車など周遊券で乗れる範囲の列車しか乗らず、宿泊もすべて民宿だったので、意外に旅行費は安く上がりました。

でも今は年齢もあり、こんな旅行をする気力もないですし、地方も大きく変わってしまい正直言うと当時の様子から比べると、個人的には少々魅力も薄れてしまった、と感じています。

今はもっとちがった旅行の考え方やスタイルがあるのかもしれませんね。