サイト運営者日記「ぶらぶらうだうだ」&レトロ中心鉄道のコラボサイト

「タウンクリニックドットコム・時代文化ネット」を運営をするアナログ管理人の日記&趣味のレトロ中心の鉄道のコラボサイトです。

(最新更新日:2024年3月16日 掲載日:2008年11月19日)

2008年にスタートした「アナログなサイト管理人日記」と「レトロ中心の鉄道サイト」のコラボサイトです
特急はくたか豪画像1・越後湯沢駅

趣味のレトロ中心の鉄道の話題を中心に、サイト管理人が以前勤めていた証券など金融、競馬、野球などテーマにこだわらない雑感や日記を綴ったコラボサイトです。サイト管理人は2007年から地域情報サイト「タウンクリニックドットコム」を立ち上げ、2014年頃から同時並行で独自の文化資料やテーマ等で文化記録を目指す「時代文化ネット」の運営管理者です。(実は超アナログ人間ですが・・・)

当サイトの本文中の画像、文言等は諸法律に沿って使用しております。またタイトル画面は埼玉県幸手市権現堂(本人が撮影:2012年4月)。またすぐ上の写真は越後湯沢駅に停車中の特急はくたか号(本人撮影:2013年3月)。いずれも無断での転載、転用をかたく禁じます。


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#ブルートレイン

ブログネタ
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ーブルートレインなど寝台列車の鉄道写真&個人的に利用した夜行列車ー

現在夜行寝台列車は定期運行では「サンライズ瀬戸・出雲号」のみのようです。
以前は東京や大阪など大都市から数え切れないくらいの特急や急行の夜行列車が運行されていました。

私も後述にありますが、かなりの数の夜行列車の世話になりました。
淘汰された大きない理由は、1高速道路網の整備による安価な夜行バスの普及、2JR分社化による相互乗り入れの必要性、3保線業務や騒音などの問題、などが考えられます。そして利用者側から見ると仕事を終えて翌日の朝から活動が可能です。さらに以前は自由席など普通車連結の列車も多く安価な利用が可能でした。またバスを利用することによるトイレや乗り物酔いなどの問題もあり、私のような夜行列車にこだわったリピーターや固定客もけっこういたのでは?と思います。

現状はJR各社の方針は収益効率がいいか、もしくは政策に沿ったインバウンドや国内富裕層をターゲットにした列車の開発は進んでいます。しかし一般客が乗る夜行列車の実際のニーズはいまだに多くはありませんが、確実にある需用だと感じています。ですので柔軟な発想でまた運行が再開すれば、と感じています。ただ私は業界内の現場で勤務したことはないので、実際の詳細な事情は承知していません。

夜行列車の運転再開は物理的な問題以外に、他に様々なハードルがある可能性もあります。一概に個人の考えや趣味的な側面だけでこれ以上この問題を語るのはやめにしておきます。

ただ戦後の焼け野原から復興し、そして大きく発展した今日の日本経済や社会には少なからず寄与したのではないかと思っています。

ここでは下記にありますが、実際に乗ったことがなくても過去に撮影した写真を掲載します。
※一部は1970年代などに東京駅や上野駅で撮影して過去に当サイトに掲載した写真も再度掲載してあります。ご承知おきください。

・寝台特急北斗星(2008年5月上野駅にて撮影)
0805特急北斗星号上野駅写真10805特急北斗星号上野駅写真2
0805特急北斗星号上野駅写真3
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・寝台特急あけぼの(2010年および2012年2月上野駅にて撮影)

1010寝台特急あけぼの号上野駅機関車写真11010寝台特急あけぼの号上野駅客車写真1.
1202寝台特急あけぼの号上野駅行先表示板写真3
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・寝台特急はやぶさ・富士(2009年3月年東京駅新幹線ホームから撮影)
0903寝台特急はやぶさ・富士号東京駅写真20903寝台特急はやぶさ・富士号東京駅写真3
0903寝台特急はやぶさ・富士号東京駅写真1
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・夜行急行能登(2008年9月上野駅にて撮影・・以前掲載済)
急行能登号489系電車画像1
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・1977年東京駅にて撮影したブルートレインおよび急行銀河(以前掲載済)
1976東京駅8・特急あさかぜ1
1976東京駅3・特急あさかぜ2
1976東京駅2・特急富士
1976東京駅5・急行銀河1
1976東京駅6・急行銀河2.
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・1977〜78年ころに上野駅で撮影した583系の特急ゆうづる号、旧型客車の急行八甲田号(以前掲載済)
1976上野ゆうづる11976上野八甲田2
1976上野八甲田1
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私が個人的に利用した夜行列車・寝台列車
・特急北陸
おそらくこの列車が私が利用した夜行列車で一番乗車回数が多いと思います。
最初に利用したのは1985年で友人と北陸に卒業旅行に行く時に利用しました。B寝台だったと思います。その次は1991年のGWで従弟の結婚式に行く時に往きに利用しました。乗車したのはB寝台個室です。初めて個室寝台に乗車して、車掌さんからカードキーをもらいました。今はどこにやったのかまったくおぼえていません。

そしてその後は私の両親が金沢の人間であることもあり、金沢のお寺さんの檀家で、当然墓も金沢なので、親戚の不幸や法事などの時に、ことあるごとに利用していました。
特に1997年から2008年まではきわめて頻繁に利用しました。
当時は北陸方面にたしか「北陸往復速達きっぷ」(その後「北陸フリーきっぷ」に改名したかもしれません)という割引きっぷがありました。内容的には昼の上越新幹線→特急はくたか、もしくは特急北陸のB寝台(含個室)のいずれかを使えるきっぷでした。

当時は北陸新幹線がなくそれなりに時間がかかる用事や午前中から金沢で用事がある場合は日帰りでの往復は難しく、仕事を終ってから夜行列車に乗車するのが一番効率がよかったからです。
上記の間はほとんどB寝台個室を利用しました。でも最後に利用しようとした2010年2月はちょうど「北陸」が廃止するというニュースが流れ、しかも急用だったのでチケットは直前では取れず、しょうがないので「上越新幹線→はくたか」で往復しました。

・急行能登
上の写真は廃止する少し前に仕事でいわきに行った帰りに上野駅に着いた時に停車していたものです。

写真の489系(金沢運転所)の「能登号」にも乗車したことがあります。
2000年くらいに会社の同僚とグリーン車に乗車しました。車内は週末の夜で会社帰りの酔っ払いの立ち客でグリーン車も混雑していました。中には酔っているのか、お行儀が悪いのか?混んでいるので車内検察が難しい状況なので、明らかに会社帰りのサラリーマンなのに、空いた座席で寝込んでいる人も結構いました。実際の事情はわかりませんが・・。車内は意外に古く元特急車両のグリーン車とはいえ、トイレは和式で、デッキではすきま風が吹き込み冬だったので連結器のところに雪が積もっていました。

またその前の1991年には前出の金沢の従弟の結婚式があり、その時の帰りに「急行能登」を利用しました。列車はすでに14系のブルートレインだったと思います。私は事前に寝台券が取れたのでよかったのですが、GWですごく混んでいて隣りの普通車のデッキに立ったまま寝ている?人がいました。
でもこちらも帰りで疲れていたのであまり細かいことをおぼえていません。

そして、さらにさかのぼり1979年の夏に大阪から金沢を経由して東京まで来た時にも「能登号」に乗車しました。その時はまだ旧型客車でした。大阪から金沢は特急雷鳥を利用、金沢から東京は「能登」のグリーン車に乗車しました。いわゆる10系客車です。中は非常に豪華でしたが、歴史を感じるようなクラシックな部分もありました。客車の車体には緑の帯が入っていて、椅子のシートはこい赤っぽい色だったのをおぼえています。

・急行銀河
この列車は北陸号の次によく利用した列車です。こちらも現在私の親戚の多くが住んでいる関西に用事があるたびに、利用しました。こちらも会社が終わってから乗車できるので大変便利でした。上に昭和51年当時の20系客車時代の写真がありますが、このころは実はまだ乗車したことはありませんでした。当時も普通に大阪に行く時は新幹線があったので、利用する必要もありませんでした。
あと急行銀河には臨時列車もあり14系客車の座席車で運行する「銀河51号」というのもありました。臨時列車でありながら、結構長い間運転されていましたが、1993年にちょうど結婚相手を身内に紹介するときに利用しました。座席だったのでかなり疲れましたが・・。でも今考えれば東京ー大阪を結ぶ唯一の在来線の座席列車として残された列車でした。

社会人になり常用するようになると、寝台車の急行銀河に乗ると通路側の補助席に腰かけて紙パックの酒を飲むことがくせになり、翌朝大阪駅で乗り換えた混みあった福知山線に乗車してもまだ二日酔いだったこともありました。ちなみに急行銀河は小田原〜米原間は車内放送も中断しますが、米原到着前に必ずオルゴールで鉄道唱歌が流れ、車掌さんから「おはようございます。また車内放送を再開させていただきます。間もなく米原に到着します」というようなアナウンスが流れました。

・大垣行鈍行列車(後の「ムーンライトながら」)
この列車はかなり前から承知していましたが、実際に初めて利用したのは判然としませんが多分1980年〜1982年くらいだったと思います。急行銀河同様に、個人的に父の実家があり頻繁に行き来していた東京ー大阪間はご承知のように新幹線があるために利用する必然的な事情もなかったからです。

当時は急行型車両(165系)を利用していたと思いますが、鉄道ファンやビジネスや旅行のために安価に済ませたい人が定期的に利用するような、かなり有名な列車でした。いわゆる「ガキ鈍」というような愛称も付いていました。

さらに知られていたのは急行型グリーン車に手軽に乗れるということでした。たしか私が最初に利用した時もグリーン車に乗りたくて座席を確保するために12月30日の夜に2時間くらい前から並んだ記憶もあります。もちろん普通車も利用したことがありますが、とんでもないくらい疲れるのでグリーン車利用のほうが多かったと思います。また往きは名古屋で降りて新幹線に乗り換えることもありました。また復路の東京行は首都圏行の夜行列車の多くがそうだったように、通勤時刻を外す時間帯(早朝か通勤時間後に東京に着くような時間帯)に運行されるので、朝5時前に東京駅に到着するようなダイヤでした。この列車でひそかに名物だったのは上り下りとも真夜中に停車する静岡駅で駅弁などの販売がありました。

・急行十和田1号
1983年に北海道ワイド周遊券で友人と当時北海道の大学にいた別の友人を訪ねた時に、始発の上野から青森まで乗車しました。座れるかどうかなどはあまり深く考えていませんでした。そしていざ始発の上野駅では意外に乗客が多かったのですが、何とか座れました。そして乗り込んだ内のかなりの人たちが終点の青森まで乗車したように見えました。そして噂には聞いていましたが青森駅で到着と同時に青函連絡船の乗船名簿をもらう列へ長いホームを奪取する競争に参加?しました。

・1983年の北海道
前出の北海道旅行は札幌に住む地元の友人の家か、夜行列車で泊まるか、大きな駅の待合室に泊まるかのどれかしかしなかったので宿泊施設には一度も泊まりませんでした。ということで北海道内でも多くの夜行列車に乗車しました。当時は「カニ族」ほどの時代ではありませんでしたが、多くの鉄道旅行者がいて、どの列車も昼行夜行を問わず混み合っていました。時にはあまり客が多いので臨時便が出たりしました。たしか札幌から稚内に行く時でしたが、定期便の「利尻号」に客が乗り切れず普通列車仕様のディーゼルの臨時便に乗車しました。それでも私を含め多くが座れずに床にカバンを置いてそれを枕に寝たのをおぼえています。特によく利用したのは札幌と網走を往復する「急行大雪号」でした。上りも下りもそれぞれ何回ずつか利用しました。
14系客車で座れたこともありましたが、座れずデッキでカバンを枕に寝たこともありました。

・1984年普通列車「山陰」
友人と北近畿ワイド周遊券で旅行に行った時に京都から鳥取まで乗車しました。
車内はかなり混み合っていて、ボックス席は大の大人が4人ですが、皆足の置き場所に困ったのをおぼえています。車両は12系客車で冷房が入っていたので助かりました。あの状態で冷房がなかったら体調も悪くなったのでは?と思います。

乗車時間は比較的短かったのですが、結構長く感じました。早朝に鳥取駅に着いて待合室で休んでいましたが、車内での疲れか、友人が少し体調を崩したのをおぼえています。その後レンタカーを借りて砂丘や温泉場に行ってのんびりしたらすぐよくなったみたいです。

・特急北斗星(臨時)
職場の元上司が単身赴任で札幌に勤務していた時に元同僚と札幌に会いに行った時に、同僚は飛行機でしたが、私は列車で往復しました。その時の往きの列車で利用しました。定期便は当時でも寝台券はきわめて取りにくく、臨時便があったのでかろうじて入手できました。B寝台個室に乗車しましたが、鉄道でしかも1本の列車で移動する部分で考えれば、こんなに長時間乗車し続けたのは異例でした。上野駅で缶ビール、弁当、お菓子を少々、瓶入りの小さなワインを買い乗車しましたが、暇なのもあり、途中で食べ物もお酒も足りなくなったのをおぼえています。たしか夕方に上野を出発して朝9時くらいに札幌に到着するまで延々と乗り続けました。一人で個室に乗車するのでプライバシーが守れると喜んでいたのですが、トイレ以外は狭い個室で過ごし、むしろ逆のように感じました

・急行はまなす
前述の札幌行の帰りに列車で帰るときに利用しました。この列車はその後希少な急行列車として有名になりました。また当初から連結していた普通車はかなり座席が倒れるリクライニングシートで、さらに途中から連結した事実上フェリーなどと同様なカーペットカーなども連結され、ある意味人気列車になりました。でも当時はそれほど人気もなく、リクライニングの普通車は連結していましたが、単なる青森行の夜行急行列車という感じでした。ちなみにその時は私はB寝台車に乗車しました。もちろんすでに青函トンネル開通後でブルートレインでした。でも空いていて夜中に青函トンネルを通過中に目が醒めてしまい、少し恐いな、と感じたくらいです。

・急行きたぐに
2000年に友人と4前出の「489系急行能登」に乗車した時に下車した糸魚川で偶然大阪発のきたぐに号をみかけました。当時もすでに581系で新潟行でした。でも普通車も連結していて特急型とはいえボックス席なので乗客は大変そうだったのをおぼえています。しかも明け方の夜行列車特有の「けだるそうな車内風景」でした。

実際に乗車したのは証券会社を退社して、外資系保険会社に勤める間の1ヶ月の休みでした。普段難しいので新潟競馬場で1日競馬を楽しみに行き、その足で大阪に行った時に利用しました。ところが前回見た時とは裏腹に、普通車はわかりませんが、少なくとも私が乗車したB寝台(下段)は人がいなくて、物騒で少し恐いくらいでした。この列車もそのかなり後ですが結局廃止になりました。

・特急さくら
2004〜2005年初旬くらいだったと思いますが、仕事の関係で急に広島の方と会わなくてはいけなくなり急に行くことになりあわててチケットを取って乗車しました。あまり混んでいないようでB寝台個室に乗車できました。実際個室なので混んでいるかどうかもよくわかりませんでしたが、トイレに行く時などに感じたのはやはり空いているのでは?と感じました。以前は東京から出るこれらのブルートレインの代表格で16時30分に最初に出発する列車で、休日でなくても寝台券を取るのも大変な列車だったと思いますが、すでに廃止の流れになっていたのかもしれません。この列車は2005年春に廃止されたようです。ちなみに早朝に下車した広島は、ちょうど土曜日の朝でまだ人はまばらで、朝帰りの米軍の兵士が駅構内にたくさんいて、こういう言い方が適当かどうかはわかりませんが、正直少し恐怖を感じました。

・急行立山
話はさかのぼりますが、中学を卒業した時に友人と私の親戚のある金沢に旅行に行き、さら京都で別の友人と待ち合わせをしたときに利用しました。富山でビジネスホテルに宿泊し、私は金沢で親戚に会いました。そして本当はその夜は福井駅の待合室で一晩泊まれれば、と思っていました。

ところが当時の福井駅の待合室は時間とともに酒盛りをする「おじさん」たちがたくさん集まり、一般の人たちが長居出来る雰囲気ではなくなってきました。そして夜中の12時をまわったころに駅前の交番のおまわりさんが見回りにきました。夜遅くなると危ないのでよくそうしているそうです。すると明らかに未成年の私と友人が2人でいたので、早速職質をされました。そして多分「二人組の家出少年」と思われたのでしょうか?補導されて交番に連れていかれました。色々調べられ家出ではないことがわかったので解放、と思いました。でも警官は「まだ半分子供がこの待合室では危険だ」と思ったのでしょうか?以下のように言われました。「この後に大阪行の夜行急行がくるのでそれに乗って約束をしていた京都に行ってしまいなさい」というような内容でした。前置きが長くなりましたそれで乗車したのが急行立山3号でした。でも結局早朝に京都駅に到着しました。
しかし京都駅の待合室に行ったら、もっと本格的に怖い人たちがたくさんいたのをおぼえています。

・特急はくつる
東北線方面の夜行はなぜか東北本線経由より、常磐線経由のほうが優勢で、たとえば青函連絡船があったころから青森行夜行寝台特急は常磐線経由の「ゆうづる」(上記に写真あり)が最盛期には7往復ありましたが、東北本線経由はずっと「はくつる」1往復だけでした。社会人になってすぐのころで、詳細はな時期はおぼえていませんが急に北海道に行く用事ができました。

当然メインの「ゆうづる」の寝台券を取ろうとしたら、満席で結局「はくつる」の寝台券は取れて利用したことがあります。寝台の指定など出来る状況ではありませんでした。

当時はまだ583系のいわゆる電車寝台で、それも天井近くの網棚にベッドを設置した上段になってしまいました。高所恐怖症の人には厳しいようなベッドで、しかも頭がすぐ天井につかえるくらい低く、「すごいところだな」というのが正直な感想でした。仕事を終えて乗り込んだので食事がまだで、一杯もやりたいので売店でシュウマイとビールを買い乗り込みました。しかしすごい環境で、さらにシュウマイが同じ味で単調なので少々飽きてしまいました。そんな記憶だけが残っています。

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とざっと乗車したことをおぼえている範囲で書きました。
長々と失礼しました。

でも夜行列車や寝台列車って今考えると、すごく風情があって好きでした。
今の近代化された旅行ではなかなか味わえない、ある意味異次元だったり、タイムスリップした空間を経験できる時間だったと思っています。

仮にこの後観光ナイズされた夜行列車や寝台列車が復活するより、このような人々の生活や人生がしみこんだような空間があったほうが、はるかに心に残ると思うのですが・・。

今の世の中では無理な相談かもしれませんね・・。

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2月2日(木)から2月7日(火)に画家・加藤恵美子が個展を国立市の「コートギャラリー国立」にて開催いたします。詳細は下記概要をご覧ください。
画家・加藤恵美子・夜桜1
夜桜 

「加藤恵美子展」開催概要

場所:コートギャラリー国立

ホームページ
〒186-0004東京都国立市中1-8-32
Google map
TEL:
042-573-8282
会期:2023年2月2日(木)〜2月7日(火)
11:00〜18:00  最終日16:00まで
http://www.courtgallery-k.com/access.html
電車
JR国立駅南口より線路に沿って立川方面に徒歩2分。
駐車場など車の方へ
お車でお越しの方は、ギャラリー前有料駐車場を御利用下さい。
ギャラリー前道路は一方通行の為、富士見通りより迂回してください。
入場無料
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ここからは鉄道の話題です

ー1976年初旬の東京駅など鉄道写真ー

埼玉県の鉄道のない町から東京に引っ越してきて最初に鉄道を見物に行ったのが表題の1976年1月に行った東京駅です。

ちょうど中学の友人と一緒に遊びに行きました。彼はまったくそのような趣味はありませんでしたが、好奇心もあり一緒に行ったという記憶があります。埼玉にいる時はそのような機会もなく、家でたまに買う時刻表などを読んで楽しんでいました。

でも埼玉時代も2回ほど大宮駅に同じような趣味の人と列車を見に行ったりしました。そして一度は彼も含めた数人で上野駅まで「冒険心」もあり遊びに行ったことはありました。その時は帰りにちょうど「福島行」の客車普通列車に乗ることができました。でもこの3回以外はそのような機会はありませんでした。

また自分の家の実家である大阪に行くことは夏冬は毎年繰り返していましたが、東京駅から新幹線で行くので在来線の見物をするような時間もなく、東京に引っ越すことが分かった時点で、そんな機会があれば、と思っていましたが、やっと実現したというのが本当のところです。

京王線と中央線を乗り継ぎ東京駅に行きました。

なぜ行ったのかというと以下のような理由です。当時早稲田や慶応の鉄道研究会が編集した「鉄道のわかる本」「鉄道雑学事典」という本がありました。それらの本を買い読んでいたら、どちらに掲載されていたかはおぼえていませんが、次のようなことが書いてありました。「東京駅でいまだに(当時)、旧型国電で「湘南電車」といわれた80系電車を見ることができる」という記事です。そしてそれに魅かれたからです。
1976東京駅1・80系電車
入線する80系電車「沼津行」
どうも当時はまだ創価学会の臨時列車が80系電車で運行されていたようで、信者を富士宮まで往き来した時の空いた筋での運用だったようです。他にも運用はありましたが、一般的な時間に定期運用されている数少ない80系電車のようでした。しかも10両以上の長大編成で、すでに近代化の始まっていた東京駅では異彩を放っていたようです。当時時刻表でもそれがすぐわかりました。すでに東海道線の普通列車は113系や急行の間合い運用の153系はすべてグリーン車を連結していましたが、80系電車だけグリーン車のマークがありませんでした。

列車に乗り込むと、内装は思いっ切り旧型国電で、一部の車両はニス塗りの木の内装でした。
一緒に同行した友人はちょうど親の実家が青森だそうで、「俺の田舎に行くとこんな列車ばかりだよ」と言っていたのが印象的でした。それでも列車は相当なスピードで大都会の東京ー横浜間を疾走して、結局大船まで乗車しました。
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さて時間が逆になりますが、80系列車が東京を出発するのはたしか午前11時前後で、それまでは東京駅に到着するブルートレインなどの夜行列車や、伊豆方面に行く特急や急行を見物していました。

まずは登場当時は「日光型」と呼ばれた157系で運用されていた「特急あまぎ」です。この時はすでに新車両の183系に置き換わっていましたが、そのご「急行伊豆」と統合してさらに新車両の185系に置き換えられ「特急踊り子」としてスタートを切りました。183系も「あまぎ」という愛称の列車も今は現役の列車にはありません。
1976東京駅4・特急あまぎ
「特急あまぎ」
さらに形式は正確な知識がないのでわかりませんが、多分167系だと思いますが、その車両も見物できました。いわゆる「修学旅行用電車」として「ひので号」や「こまどり号」などの愛称で親しまれた「修学旅行用電車」です。

以前の時刻表では欄外に各列車の時刻表まで掲載されていました。しかし新幹線の博多開通以降だと思いますが、修学旅行は新幹線に取って代わられたため少なくとも東海道線や山陽線を経由する列車は不要になってしまったようです。私が小さいころは「交通図鑑」にも代表的な列車として「ひので号」が載っていました。
1976東京駅7・167系電車
「急行おくいず」
そこで余剰車両は、伊豆方面の臨時急行列車に使用されるようになったようで、季節列車や臨時列車の「急行おくいず号」にも使用されていました。その車両が偶然東京駅に止まっていました。当時だけという、きわめて珍しい車両運用であり、今考えれば、とても希少な列車だったのかもしれません。

当時のままであれば車内は普通の急行列車とほぼ同じ仕様ではありますが、修学旅行用ということで各座席のボックスに荷物棚などがあったようです。写真の「当日停車していた車両」の内装は残念ながらまったく記憶がありません。

あと東京駅に到着するブルートレインも見物できました。当時これらの列車は鉄道ファンにも大人気で略して「ブルトレ」などといわれていましたが新幹線の博多開通後も寝台券を取るのが大変で「プラチナチケット」と呼ばれていました。特に九州ではありませんが急行から格上げになった「特急出雲」は人気があったと記憶しています。

1976東京駅8・特急あさかぜ11976東京駅3・特急あさかぜ2
「特急あさかぜ」
1976東京駅2・特急富士
「特急富士」
特急はやぶさ1東京駅1976
「特急はやぶさ」
今回は比較的遅く東京に到着する列車「特急あさかぜ」と「特急富士」、「特急はやぶさ」を見物しました。「特急あさかぜ」はまだ20系客車でした。
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1976東京駅5・急行銀河11976東京駅6・急行銀河2.
「急行銀河」
さらに当時はヘッドマークもなく鉄道ファンはほとんど見向きもしませんでしたが、東京ー大阪間の「急行銀河」も見物できました。考えてみたら私の親戚はほとんど関西と北陸なので銀河号は平成以降は家の用事で会社帰りに何度も乗車しましたが、当時は見物すら初めてでした。「急行銀河」もまだ20系客車でしたが、すでに10系ではなくなっていたのでグレードは当時の急行としては高かったのかもしれません。ただヘッドマークもなく、写真のように客車の最後尾も列車名の表示はありませんでした。

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また話は飛びますが、80系電車で大船から横須賀線に乗り換え、鎌倉経由で江ノ島へ出ました。
周辺は観光地でもあり、そこでの記録は鉄道と直接関係ないので端折ります。

1976・片瀬江ノ島駅特急えのしま号
小田急ロマンスカー「えのしま号」
そして最終的に写真のように小田急ロマンスカーの「えのしま号」に乗車して、新宿まで戻ってきました。

ロマンスカーも今となっては貴重な車両でしたが、当時はこの車両は「えのしま号」「さがみ号」などでは主力車両で、たまたま写真は残っていましたが、この車両に乗るのが目的ではなく、さすが少し疲れたのでロマンスカーで帰ろう、ということになり乗っただけ、という程度でした。

本格的に電車の写真を初めて撮り、それなりに満足でしたが、この行脚に付き合ってくれた人は基本的に興味があるわけではなかったので、ある意味同行してくれて、今では感謝しています。

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