サイト運営者日記「ぶらぶらうだうだ・・」

「タウンクリニックドットコム」「時代文化ネット」などサイト運営をするアナログ脱サラ(いつのまにか・・)親父のブログの何でも日記風ブログです。

(最新更新日:2022年6月24日 掲載日:2008年11月19日)
当サイトのタイトルや本文中の画像、文言等は管理者が独自に撮影、制作したもの、および所有者や著作権所有者の方の許可を得るなど諸法律に沿って使用しております。無断での転載、転用をかたく禁じます。タイトル画面は近鉄奈良駅前商店街の「鹿屋」(閉店)でかつて販売していた「鳴き鹿」、奈良公園の鹿です。

2005年にスタートした「穴狙い千ちゃんの旅行記」〜2008年に別URLでリニューアルした「穴狙い千ちゃんの旅行記2」をそのまま現在のタイトルに変えて掲載を続けています。ほとんどITには縁のなかった証券マンがたまたま転職した先でウェブサイトを運営するグループに所属し、その流れでこのような「アナログオヤジの日記」を続けております。
宜しくお願い致します。

なお私は一応、「タウンクリニックドットコム・時代文化ネット」というサイトの運営管理者でもあります。

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まだ私が小学校4〜5年くらいのころだと思いますが、いつも夏休みになるとずっといた大阪府豊中市の祖父母の実家にいた時のことです。いつもは母と姉と私だけだったのですが、めずらしく父も来ていて、さらにめずらしく「海水浴でもいくか」と言いました。自分の実家なのに仕事の関係もあり、めったに顔を出さないばかりか、やはり仕事が不規則な上に多忙だったので、家族旅行もほとんど行ったことがなかったのに、意外にあっさり出た発言でした。

海水浴と言えば、当時は小さい頃やはり千葉の九十九里海岸に行ったことがあり、また父抜きでは父の妹の家族が知多半島に住んでいたので、大阪からわざわざそこに行ったくらいでした。

めったにないことなので、父の気が変わったり、急に仕事が入ったりしないうちに、と思い、姉も私も賛成しました。

場所はと言うと、「琵琶湖」と「洲本」はどっちがいい?と聞かれました。
「琵琶湖」は知っているけど、「洲本」ってどこ?と思い、「琵琶湖」と答えました。

でも実際に行ったのは「洲本」でした。
大人になれば皆ご存知と思いますが、「洲本」は淡路島でした。

途中の経過や、詳細は忘れましたが、実はすでに「洲本」の旅館まで予約してありました。
それが行くことが決まってからなのか、事前にその予定だったのかは今となっては判然としません。

ということで出発しました。
まず阪急電車で十三で乗り換えて、三宮に出ました。
そして神戸港から船で、淡路島に渡りました。
船は大きくありませんでしたが、大阪湾や瀬戸内海なので穏やかで、楽しい船旅でした。

そして1時間半くらいで洲本港に到着しました。
着てみると、船旅があったりで、こちらでよかったと思いました。

洲本は海水浴場がある海岸沿いに旅館などがならび、そこにすぐに低い山がありました。
旅館はたしか「三熊館」というところで、結構大きな旅館でした。
けっこう観光地なんだな、と思いました。

海はあまりきれいではありませんでしたが、波は穏やかで、さらにわりと遠浅に感じました。
ただ海に入ると、一旦少し深い、脊の立たないところがあり、そこをこえるとまた浅瀬になり、不思議な感じでした。

またクラゲがすごく多くて、最初は海に入っているとたくさんいて、気持ち悪い、と思っていましたが、そのうち慣れました。
それからヤドカリなどもたくさんいました。

そして時間はあっという間に過ぎて、帰りの船に乗ることになりました。
神戸に戻るのか、と思っていたら、理由はわかりませんが、和歌山の深日(ふけ)港に行く船に乗りました。

船は往きとちがい、紀伊水道を通っている関係か、結構ゆれました。
船も神戸からの船より、小さかったように感じました。
そしてゆれは縦というよりは横に揺れたような気がします。

しばらく走り、すでに暗くなり、船はやっと深日港に着きました。
すこしホッとしました。でもこれからまだ長い道のりでした。

当時は南海電車に深日港から、灘波に行く急行のような列車があり延々とそれに乗りました。
「こうや号」みたいにロマンスカーみたいな列車ではなく、中長距離列車仕様の席でしたが、普通の車両でした。

灘波から御堂筋線・北急で桃山台に出て、さらにバスでやっと夜遅くに帰宅しました。

父と旅行に行ったのは、その後も何回かありましたが、父が50代で病気で倒れしょうがい者になるまでの、健常者の父と旅行に行ったのは、以後これ以外には2回しかありませんでした。

それにしてもあの唐突な「海水浴に行こうか?」という言葉は「どういう気持ちだったのか?」が今でも不思議です。

当時はそのような家庭はすごく多かったと思いますが、その時の言葉の中にあった父の気持を知りたいと、今でも思っています。

旅行って、どこに行ったか、よりどんなシチュエーションで、誰と行ったか、とか誰と出会ったか、のほうがよほどよくおぼえていて、重要な話なのかもしれません。

このお題を見て、何かあるかな?と考えていたら、普段は忘却の彼方になっていた、このことを思い出しました。

ちなみに父はしょうがい者になってからは、逆に車いすが乗る車を借りたりしてわりとよく旅行に行くようになりました。

そして24年間はそんな生活が続き、父は平成25年に他界しました。

当然そんな当時のことは私も忘れていて、彼が存命中にそのことを聞くことすら、忘れていました。
※失語症もありましたが、人の話はちゃんと聞ける状態でした。

区分9b

話は違いますが、
私は「タウンクリニックドットコム・時代文化ネット」では複数のサイトで様々な文化情報というと、立派ですが、自分の記載したい分野の情報を発信しています。ちなみに近々に下記の情報を別サイトにアップしました。もしよろしければ・・。







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表題は、何と「てしまこうえんプール」と読むそうです。
豊中市の阪急宝塚線の曽根駅から歩いて少しのところにありました。

小学生のころ、豊中の上野小学校のちかくの祖父母の実家からプールに行く時に、よく行ったプールです。当時は車がないのが普通で我が家も例外ではなく、バスで豊中駅に出て、電車で2駅乗り曽根駅に出てそこから歩いて行きました。まだ近隣以外の地名などはよくわからなかったので、「としま」か「とよしま」かどちらかなのか?と勝手に考えて、現在に至りました。

ところが、現在この「てしまこうえん」にはプールはなくなっているようです。
というよりはホームページで見た範囲では、近くに温水プールができたみたいです(事実関係の詳細は不明です・・)。またいつ閉鎖になったのかは定かではありません。

このプールに初めて行ったのは多分小学校の2〜3年生のころだと思います。
親戚のおばちゃんなどと皆で一緒に行きました。
プールは屋外で、子供用の浅いプールと大人用の普通のプールが共存していました。
プール沿いに阪急電車の線路があり、泳いで?(当時はほとんど泳げませんでしたが・・)いると、頻繁に電車が通ったのをおぼえています。

ある時に、いとこが集まって、子供たちだけで行こう、ということになりました。
知多半島に住む父の妹の子供の兄弟(年上)、私と姉、それから初芝の父の他の妹の息子(1年下)のメンバーで出発しました。

当時曽根駅からプールまでの正確な道順を知っている人はいなくて、大人に連れていってもらった時の記憶をたよりに「現地に行けば何とかなるだろう」というのが、皆の考えで、私も「大丈夫だろう」と思っていました。

ところが、実際に駅について歩き始めると、道というのは目的地に直接つながっているわけでもなく、遠くからでも見えるような目立つ「タワー」のような目印もなく、道順は完全にわからなくなってしまいました。

よく山で道に迷うと、動けば動くほど道がわからなくなってしまうことがあるそうですが、状況はそこまで危険ではありませんが、同じような状況になってしまいました。

また皆は早くプールに行きたいので、そのうちに他のプールでもいいから、他もさがそうよ、ということになり、ひたすらその周辺を歩いてまわりました。当然前述の「山の道迷い」のように「今どこにいるのか」もわからなくなっていました。

どれくらい時間がかかったのかはわかりませんが、ついに阪急線からはかなり離れた「服部緑地」のほうまで来ているようでした。すると誰かがおぼろげな記憶で「それなら、服部緑地にはたしかプールがあったと思うよ」というようなことを言いました。「ほんまかいな?」とも思いましたが、皆疲れ果てていたので、それでも何でもいいから早くそこに行こう、と思いました。

正直もうプールなどどうでもよくなっていました。
腹も減ってきて、早くこのスパイラルから抜け出したいと、思っていました。

でもしばらく我慢してさがしながらさ迷っていると、温水の室内プールのような建物が見つかりました。
そこで一番上の従兄弟たちが、プールの事務所か何かで話を聞きに行きました。
しばらくして、帰ってくると「ここはだめだ、深いらしいよ」といいました。
上の父の妹の子供の兄弟は当時知多半島に住んでいて、いつも海で泳いでいるので、あまり関係ないのですが、他の私と姉や、もう一人の従弟は少なくとも海の近くには住んだこともなく、私に至っては前述のように事実上の「かなづち」でした。

皆もうどうでもよくなりました。
いわゆる「戦意喪失」状態です。

さてここから曽根駅に戻るには、どうしたらいいか?
皆必死に道をさがしました。途中で人に聞いたかもしれません。

そんなこんなでやっと曽根駅にたどりつき、帰ろうとした時です。
多分そこで再度また誰かに聞いたのかもしれません。
そしたら、たしか駅の反対側だったようにおぼえていますが、問題の「豊島公園プール」には簡単に行けることがわかったように記憶しています。たしかその後そのプールで少し遊んで、帰ったのをおぼえています。

この話は「オチ」はなく、これでおしまいですが、どちらかというと他のどのプールよりも詳細ではありませんがその時の経緯の記憶が残っていて、印象深いできごとであり、プールでした。

しかし読み方を「てしまこうえんプール」と読むのは、今の今まで知りませんでした。
たぶんここまでこのプールにこだわった人たちの中でも上位に入るような思いでがあるのに、です。

自分でもそう思う理由はよくわかりませんが、、「閉鎖」されたのをきわめて残念に思っています。

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追記分(6月19日AM7時22分)
夕方に一旦インフラが回復したように報道されていましたが、夜以降朝の報道ではまだかなり水道などが止まっているようです。新たに欠陥が見つかり止ったところもあるようです。


今朝、朝食を食べていたらいきなり緊急地震速報がありました。
昨日も函館スプリントSのゴールくらいに急に緊急地震速報があり、群馬で地震があったばかりでした。
また方向は違いますので関係ないかもしれませんが、函館の最終レースはどの馬も枠入り後にすごい興奮状態でそのうちの一頭(実は私が買っていた馬でした・・)はゲート内で暴れて怪我をして出走取り消しになったほどです。長年競馬を見ていますが、これほど多くの馬がゲートで同時に興奮するのはあまり見たことはなく、すごく違和感を感じていました。

それはともかく、前日の群馬の地震などと比べると、今日の地震ははるかに規模が大きく、人的にも大きな被害がでました。

お悔やみ、お見舞い申し上げます。

私は親戚の殆どは関西人と北陸で地震のあった地域付近にも複数住んでいます。家族が連絡をとったところは大部分の人は大丈夫だったようですが、個人的に子供の頃からすごく近い従兄弟が豊中南部の庄内というところに単身で住んでいたはずで、昼間では連絡が取れていないようで大丈夫だったか心配していました。ただニュースなどでは大丈夫そうなので、電話も混乱しているようなので追加連絡はしていません。
彼は店が変わっていなければ阪急線の駅(東淀川区)の近くの飲食店の店長をやっているはずなので店も大変かもしれません。
以前東日本の時に東京でレストランをしていた人が地震で食器などの多くが破損して、結局閉店に追い込まれた、という話をきいたことがあります。

また祖父母の実家が以前は長年この地域の豊中の上野(吹田市や千里に近い地域)というところに祖父母の実家があり、当時子供時代は一年に何ヶ月もすごていました。
今は取り壊されてありませんが、阪神の震災の後は家具が倒れたり、壁に大きなひびが入ったりしていたのをおぼえています。阪神大震災は神戸というイメージが強いのですが、豊中あたりはすぐ2〜3キロくらいで伊丹空港がありかなり揺れがひどかったようです。今回は高槻や枚方あたりが震源区域と思われますが、大阪付近は結構狭いので近隣の兵庫県や京都府でも被害が出ているようです。

それから私自身も東日本震災で仕事でいわきの小名浜漁港の近くで被災しました。
当時いわきは震度6弱だったらしいのですが、当時自分では震度6など経験したことはなく、緊急地震が鳴って揺れはじめてからの出来事は今でも忘れられません。

ごおおおおっ、という轟音とともに、ミシミシッ、という建物などがきしむ音がして、その音が今でも耳に残っているくらいです。
周りの家が大きくバウンドするような感じになり、そのうち瓦がすごい音を立てて大量に落ちました。
あとで片付けの時に瓦はすごく重いことがわかり、こんなのに当たったら大変だと思いました。
しばらくするとあちらこちらでサイレンが鳴り始め、となりの大きな駐車場付のパチンコ屋さんにも救急車が来て誰かを搬送して行きました。パチンコ屋さんの大きな建物の屋根の一部が崩落した関係だと思います。
と、急に薄暗くなりいきなり雪が降り出しました。

ほどなく目の前の港から常磐線の泉駅に向かう道路は大渋滞になりました。津波から避難する車が殺到したためだと思われます。

大きな揺れで外に飛び出しましたが、地震の揺れはすごくて地力では立っていられないくらいでした。駐車場のトラックにずっとしがみついていました。揺れがおさまり仕事先の工場の事務所に戻ると中はヒッチャカメッチャカになっていました。

先程テレビで見たら、やはり同じようにコンビニなど店舗の硝子が割れ落ちたりしていました。
当時車も宿泊先もない状態なので避難させてもらえるということで、訪問していた会社の常務の実家に車で連れて行ってもらった途中も、道路が大きく隆起して電柱はことごとく傾いていました。

当時首都圏では余り知られていないかもしれませんが、電気が回復したので翌日のニュースでは福島県内では大規模な土砂崩れ(白河)やため池の決壊(須賀川)などがありかなりの人数の方が犠牲になりました。地元テレビでは何時間も救出活動を中継していました。ただその後段々と判明した津波の被害があまりにひどかったことや原発事故の関係もあり、それ以後はあまり詳しく報道されませんでした。

結局海と事務所の間に大きな工場があり防波堤代わりになったので私のいたところは津波で浸水は免れましたが、その後1年くらいは海に近いところに行けませんでした。

これからしばらく余震に悩まされると思いますが、当時はとにかく水が大事だと感じました。
普段は余り気付きませんが、手を洗えない、トイレが使えないなどはそのことだけではなく、メンタル面も含め体調不良の大きな原因になります。

今回は電気はほぼ復旧、水道もおおかた大丈夫になりつつあるようですが、長時間の電車の立ち往生、エレベーターに閉じ込められるなど都会ならではの被害も多かったようです。私は閉所恐怖症なので考えただけで具合が悪くなりそうです。

すでに大きな被害が出ていますが、これ以上拡大しないことを祈っています。
本当にいつも大きな地震は意表をつくように起きるので驚いています。

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