サイト運営者日記「ぶらぶらうだうだ・・」

「タウンクリニックドットコム」「時代文化ネット」などサイト運営をするアナログ脱サラ(いつのまにか・・)親父のブログの何でも日記風ブログです。

(最新更新日:2022年6月24日 掲載日:2008年11月19日)
当サイトのタイトルや本文中の画像、文言等は管理者が独自に撮影、制作したもの、および所有者や著作権所有者の方の許可を得るなど諸法律に沿って使用しております。無断での転載、転用をかたく禁じます。タイトル画面は近鉄奈良駅前商店街の「鹿屋」(閉店)でかつて販売していた「鳴き鹿」、奈良公園の鹿です。

2005年にスタートした「穴狙い千ちゃんの旅行記」〜2008年に別URLでリニューアルした「穴狙い千ちゃんの旅行記2」をそのまま現在のタイトルに変えて掲載を続けています。ほとんどITには縁のなかった証券マンがたまたま転職した先でウェブサイトを運営するグループに所属し、その流れでこのような「アナログオヤジの日記」を続けております。
宜しくお願い致します。

なお私は一応、「タウンクリニックドットコム・時代文化ネット」というサイトの運営管理者でもあります。

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先週の日曜日に能登半島の先端の珠洲市で大きな地震がありました。
震度6弱だったようです。そして翌日にまた震度5強の地震がありました。
現状では人的には死者が出るような被害にはなっていないようですが、まだ地殻が不安定な状況のようで、しばらくは警戒が必要なようです。

私は個人的には東日本大震災の時に福島県いわき市小名浜港の近くの水産加工品の製造業者と打ち合わせをしていた関係で、それなりの状況を経験しました。詳しくは下記をご覧ください。

3月11日の日記


3月11日以降の日記


私は地震が起こった珠洲市とは直接地縁はありませんが、石川県は両親とも同じ金沢の高校の出身で、どちらも複雑な部分のある家庭ですが北陸の家の人間です。私も結婚までは本籍地は住んだこともない金沢市東山というところでした。

能登にも、親戚はいて、父親の従弟で父親同様もう他界しましたが、志賀町の能登金剛に近い「巌門」という観光地で海鮮料理や土産物を出す「ロードパーク女の浦」というドライブインを家族が引き続きやっています。ちょうど「鷹の巣岩」という岩のあるところです。

店は近年まではやっていましたが、コロナ以降はどうなっているかは正確にはわかりません。
※冬は休業ですが、今時期はやっていれば開店しているはずです。

金沢は用事などで頻繁に行っていますが、能登に行ったのはそう何回もありません。
最近では東日本大震災からちょうど2年経った2013年3月11日に用事で、その「巌門」の店に行きました。その時に2007年の能登半島地震のことや1993年の奥尻島の地震のことを聞きました。2007年は店の駐車場のコンクリートが隆起して大変だったそうです。また1993年の奥尻の地震のときには、はるか遠い北陸にも津波が押し寄せ、家の伝馬船がこわれたそうです。

それから今回地震があった珠洲市は大学時代に友人と、親戚にはお忍びで旅行に行った時に1泊だけ宿泊したところで、行ったのはその1回きりです。もちろん私のことなので友人は男性です。「お忍び」というのは金沢では現地に行った時は親戚などにだまっていると怒られるからで、変な意味はありません。その時は自由に旅行がしたかったからです。

真冬でしたが、夜行列車で金沢に行き、そこからいきなり列車で輪島に行き1泊、そしてバスや歩きで能登半島北岸を移動して禄剛崎灯台まで行き、そこで日が暮れて、輪島もそうでしたが、旅館を予約していたわけでもなく、困り果てていたら、灯台の近くにユースホステルがあり、そこに泊めてもらいました。

ちょうど真冬でもあり、他の客は関西から来ていた女性2人だけで、その時限りでしたが、結構楽しいひとときを過ごしたのをおぼえています。翌日明るい禄剛崎をもう一度見物して、能登線の始発駅から出る金沢行きの急行能登路号に乗車しました。
輪島も金沢からは結構離れていますが、珠洲はそれ以上に離れていて、朝9時ごろ発の急行に乗車したのに、金沢に着いたのは昼過ぎでした。

そして金沢の街を素通りして、宇奈月温泉に直行してそこに泊まりました。

私の親戚の志賀町とこの珠洲市も同じ県とは思えないくらい離れていて、特に今は輪島に行く七尾線の穴水以北や、能登線の穴水〜蛸島間もすべて廃止になり、車のない人は観光バスやツアーでない限り、ほぼ観光もできないくらいの状況になっています。

そういえばあまりこれらの話とは関係ありませんが、金沢市のコンビニなどでも普通に買える「宗玄」という酒はたしか珠洲市の醸造会社が造る酒で、金沢で以前洋菓子屋を経営していた親戚の方が「宗玄はうまいよ。俺は一番好きな酒や」と言っていました。

大きな地震が起きると。まずは「水」「トイレ」「手を洗う手段」そして「医薬品」だと思っています。もちろんそれ以外にも必要なものはたくさんありますが、最初に困るものや、体調が悪くなった時の対応がまず必要だと思っているからです。
あとは他の人や自治体などと連絡を取る手段である通信機器やラジオなどという気がします。

しかも「お弁当忘れても、傘忘れるな」といわれる雨雪の多い、北陸地方です。
特に能登は「釉薬瓦」が黒く映えるような降水量の多い地域です。
シーズン的にも雨にも注意だと思います。

被災地の皆さんにはお見舞い申し上げるとともに、これ以上大きな地震が起きないように、と祈っております。

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話は違いますが、
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少し前に「どれにしようかな〜〜」のことを掲載しましたが、ついでに思い出したことをまた記載します。

小さい頃育った埼玉県鳩ケ谷(昭和42年市制、平成の大合併で川口市に編入)で、表題の「♪お弁当粒つけてどこいくの♪」という歌がありました。このフレーズには続きがあって「♪大宮公園ひとまわり♪」と続きました。

少し前に「どれにしようかな♪」の話を書いた時に、それも思い出して、少し調べてみました。
するとやはりネットにはそれに関係することが結構出ていました。

どこの町の話かは不明ですが・・
ネットによると・・
「お弁当付けてどこ行くの」というフレーズと
「ご飯粒付けてどこいくの」というフレーズが存在するようでした。

私が子供のころに聞いたフレーズはその中間という感じでした。

最後の
「大宮公園ひとまわり」というところはすべて共通のようでした。

大体「お弁当粒」ということばは当時も日常に使った記憶はなく、鳩ケ谷では両方のフレーズが入ってきて、そのうち両方がまざってしまい、このようなフレーズになったのかもしれないと思いました。

埼玉県は当時(昭和40年代)はまだそれほど都市化はされていなくて、実は鉄道のない鳩ケ谷にいたっては、「大宮公園」も遠い存在で、名前は有名だったので知っていましたが、私も小学5年の時に初めて行くまでは、実際には行ったことすらありませんでした。

行くと、公園というよりは、埼玉県ではどの町にもあるくらいの、あの「氷川神社」の総本社の「裏庭」、というか敷地に隣接したところのように感じました。そこに公園や野球場など運動施設などがあるという感じだったみたいです。

個人的な想像ですが、考えるに、きっと「大宮公園」は、当時の埼玉県民にとっては、民間信仰のシンボルだったのかもしれません。

小さいころは「大宮公園」自体を知る前に、この歌をおぼえるというくらい、一般的な歌に感じていました。

もしかしたらよその土地でも。「大宮公園」の部分が他の地名や施設に置き換わって、存在しているのかもしれないですね。

あれからかなりの年月が経ちますが、引っ越して東京にいますが、以来今だに「大宮公園」にはいっていませんが、たまたま、活動の一環で歯科医院をまわっていたら、紹介で東武野田線の大宮公園駅の近くの歯科医院に行く機会はありました。
すると今は知りませんが、大宮公園駅も駅の格からは想像もできないほど、駅舎本屋も立派な建物でびっくりしたのをおぼえています。

当時から埼玉県民は秩父地方以外は、県民意識やふるさと意識のかけらもない県民とよく言われていますが、唯一この歌のように「大宮公園」は数少ない県民意識のあらわれなのかもしれません。

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小さい時に、何個かあるものから、ひとつを選ぼうとするときに、
「どれにしようかな、天神様のいうとおり、おべべのべ」
と言っていました。

なぜいきなりそんなんことを書いたのかというと、昨日テレビ番組の「ヒロシのぼっちキャンプ」で、彼がものを選ぼうとする場面があって、その時に「○▲※□×◎△〜〜・・」と何かの呪文のように、言っていて、画面には「彼が熊本県出身である」旨が表示されました。

「そういえば・・」
こういう時に、私も無意識にかならず冒頭のようなことを言っていたのを思い出しました。
正直テレビを見るまでは、そんなことはすっかり忘れていました。

思い出しついでに、自分の言っていた言葉は、全国でどのような位置づけになっているのか、興味がでてきてネットで調べてみました。

ちなみに私は生まれたのは大阪で、親は北陸、親戚や文化はほとんど関西や北陸ですが、育っていたのは埼玉県です。埼玉は今は東京と地続きのような存在ですが、私が育った当時はそこまでは都市化されていませんでしした。

調べてみると、
やはり、この「どれにしようかな・・」の言い方が色々出ていました。

すると、まず表題の言葉は「どれにしようかな」ではなく「どちらにしようかな・・」と出ていました。

さらに真ん中の部分はこれは全国ほぼ共通ですが、「天神様のいうとおり」になっていました。
そして、そこから後はどの地方も、まったくと言っていいぐらい、地方ごとに違っていました。

さらに私が使っていた、最後の文句の、
「おべべのべ」
という部分は、たとえば埼玉県、群馬県、新潟県では共通して「あべべのべ」というふうに載っていました。

「おべべのべ」ではなく「あべべのべ」でした。

そこで私が使っていた「おべべのべ」というのを調べてみると、総合的に判断するとやはり埼玉県や群馬県の一部ではそのように使われているような感じでした。

ちなみに「おべべのべ」というのはどのような意味なのでしょうか?
当時は無意識に使っていたので当然そんなことは考えませんでしたが、不思議な言葉で、意味不明です。

また他の地方での言い方も、「天神様のいうとおり」の後は、意味不明な文句の地方が多く、特に自分が使っていない言葉の多くには違和感を感じました。

そもそも、何でほぼ全国で「天神様」なのでしょうか?
たとえば埼玉で私の住んでいた街には、私の知る限り「天神様」はありませんでした。あったのは「氷川神社」です。

私の認識では天神様とは、天満宮のことで、菅原道真が祀られてという認識ですが、

もしかしたら「天神様」が全国を行脚して、布教活動をしたのかな?
その名残りなのかな?とも思いました。

当時は当たり前のように使っていましたが、
不思議な言葉で、謎につつまれています。


区分9b

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まだ私が小学校4〜5年くらいのころだと思いますが、いつも夏休みになるとずっといた大阪府豊中市の祖父母の実家にいた時のことです。いつもは母と姉と私だけだったのですが、めずらしく父も来ていて、さらにめずらしく「海水浴でもいくか」と言いました。自分の実家なのに仕事の関係もあり、めったに顔を出さないばかりか、やはり仕事が不規則な上に多忙だったので、家族旅行もほとんど行ったことがなかったのに、意外にあっさり出た発言でした。

海水浴と言えば、当時は小さい頃やはり千葉の九十九里海岸に行ったことがあり、また父抜きでは父の妹の家族が知多半島に住んでいたので、大阪からわざわざそこに行ったくらいでした。

めったにないことなので、父の気が変わったり、急に仕事が入ったりしないうちに、と思い、姉も私も賛成しました。

場所はと言うと、「琵琶湖」と「洲本」はどっちがいい?と聞かれました。
「琵琶湖」は知っているけど、「洲本」ってどこ?と思い、「琵琶湖」と答えました。

でも実際に行ったのは「洲本」でした。
大人になれば皆ご存知と思いますが、「洲本」は淡路島でした。

途中の経過や、詳細は忘れましたが、実はすでに「洲本」の旅館まで予約してありました。
それが行くことが決まってからなのか、事前にその予定だったのかは今となっては判然としません。

ということで出発しました。
まず阪急電車で十三で乗り換えて、三宮に出ました。
そして神戸港から船で、淡路島に渡りました。
船は大きくありませんでしたが、大阪湾や瀬戸内海なので穏やかで、楽しい船旅でした。

そして1時間半くらいで洲本港に到着しました。
着てみると、船旅があったりで、こちらでよかったと思いました。

洲本は海水浴場がある海岸沿いに旅館などがならび、そこにすぐに低い山がありました。
旅館はたしか「三熊館」というところで、結構大きな旅館でした。
けっこう観光地なんだな、と思いました。

海はあまりきれいではありませんでしたが、波は穏やかで、さらにわりと遠浅に感じました。
ただ海に入ると、一旦少し深い、脊の立たないところがあり、そこをこえるとまた浅瀬になり、不思議な感じでした。

またクラゲがすごく多くて、最初は海に入っているとたくさんいて、気持ち悪い、と思っていましたが、そのうち慣れました。
それからヤドカリなどもたくさんいました。

そして時間はあっという間に過ぎて、帰りの船に乗ることになりました。
神戸に戻るのか、と思っていたら、理由はわかりませんが、和歌山の深日(ふけ)港に行く船に乗りました。

船は往きとちがい、紀伊水道を通っている関係か、結構ゆれました。
船も神戸からの船より、小さかったように感じました。
そしてゆれは縦というよりは横に揺れたような気がします。

しばらく走り、すでに暗くなり、船はやっと深日港に着きました。
すこしホッとしました。でもこれからまだ長い道のりでした。

当時は南海電車に深日港から、灘波に行く急行のような列車があり延々とそれに乗りました。
「こうや号」みたいにロマンスカーみたいな列車ではなく、中長距離列車仕様の席でしたが、普通の車両でした。

灘波から御堂筋線・北急で桃山台に出て、さらにバスでやっと夜遅くに帰宅しました。

父と旅行に行ったのは、その後も何回かありましたが、父が50代で病気で倒れしょうがい者になるまでの、健常者の父と旅行に行ったのは、以後これ以外には2回しかありませんでした。

それにしてもあの唐突な「海水浴に行こうか?」という言葉は「どういう気持ちだったのか?」が今でも不思議です。

当時はそのような家庭はすごく多かったと思いますが、その時の言葉の中にあった父の気持を知りたいと、今でも思っています。

旅行って、どこに行ったか、よりどんなシチュエーションで、誰と行ったか、とか誰と出会ったか、のほうがよほどよくおぼえていて、重要な話なのかもしれません。

このお題を見て、何かあるかな?と考えていたら、普段は忘却の彼方になっていた、このことを思い出しました。

ちなみに父はしょうがい者になってからは、逆に車いすが乗る車を借りたりしてわりとよく旅行に行くようになりました。

そして24年間はそんな生活が続き、父は平成25年に他界しました。

当然そんな当時のことは私も忘れていて、彼が存命中にそのことを聞くことすら、忘れていました。
※失語症もありましたが、人の話はちゃんと聞ける状態でした。

区分9b

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表題は、何と「てしまこうえんプール」と読むそうです。
豊中市の阪急宝塚線の曽根駅から歩いて少しのところにありました。

小学生のころ、豊中の上野小学校のちかくの祖父母の実家からプールに行く時に、よく行ったプールです。当時は車がないのが普通で我が家も例外ではなく、バスで豊中駅に出て、電車で2駅乗り曽根駅に出てそこから歩いて行きました。まだ近隣以外の地名などはよくわからなかったので、「としま」か「とよしま」かどちらかなのか?と勝手に考えて、現在に至りました。

ところが、現在この「てしまこうえん」にはプールはなくなっているようです。
というよりはホームページで見た範囲では、近くに温水プールができたみたいです(事実関係の詳細は不明です・・)。またいつ閉鎖になったのかは定かではありません。

このプールに初めて行ったのは多分小学校の2〜3年生のころだと思います。
親戚のおばちゃんなどと皆で一緒に行きました。
プールは屋外で、子供用の浅いプールと大人用の普通のプールが共存していました。
プール沿いに阪急電車の線路があり、泳いで?(当時はほとんど泳げませんでしたが・・)いると、頻繁に電車が通ったのをおぼえています。

ある時に、いとこが集まって、子供たちだけで行こう、ということになりました。
知多半島に住む父の妹の子供の兄弟(年上)、私と姉、それから初芝の父の他の妹の息子(1年下)のメンバーで出発しました。

当時曽根駅からプールまでの正確な道順を知っている人はいなくて、大人に連れていってもらった時の記憶をたよりに「現地に行けば何とかなるだろう」というのが、皆の考えで、私も「大丈夫だろう」と思っていました。

ところが、実際に駅について歩き始めると、道というのは目的地に直接つながっているわけでもなく、遠くからでも見えるような目立つ「タワー」のような目印もなく、道順は完全にわからなくなってしまいました。

よく山で道に迷うと、動けば動くほど道がわからなくなってしまうことがあるそうですが、状況はそこまで危険ではありませんが、同じような状況になってしまいました。

また皆は早くプールに行きたいので、そのうちに他のプールでもいいから、他もさがそうよ、ということになり、ひたすらその周辺を歩いてまわりました。当然前述の「山の道迷い」のように「今どこにいるのか」もわからなくなっていました。

どれくらい時間がかかったのかはわかりませんが、ついに阪急線からはかなり離れた「服部緑地」のほうまで来ているようでした。すると誰かがおぼろげな記憶で「それなら、服部緑地にはたしかプールがあったと思うよ」というようなことを言いました。「ほんまかいな?」とも思いましたが、皆疲れ果てていたので、それでも何でもいいから早くそこに行こう、と思いました。

正直もうプールなどどうでもよくなっていました。
腹も減ってきて、早くこのスパイラルから抜け出したいと、思っていました。

でもしばらく我慢してさがしながらさ迷っていると、温水の室内プールのような建物が見つかりました。
そこで一番上の従兄弟たちが、プールの事務所か何かで話を聞きに行きました。
しばらくして、帰ってくると「ここはだめだ、深いらしいよ」といいました。
上の父の妹の子供の兄弟は当時知多半島に住んでいて、いつも海で泳いでいるので、あまり関係ないのですが、他の私と姉や、もう一人の従弟は少なくとも海の近くには住んだこともなく、私に至っては前述のように事実上の「かなづち」でした。

皆もうどうでもよくなりました。
いわゆる「戦意喪失」状態です。

さてここから曽根駅に戻るには、どうしたらいいか?
皆必死に道をさがしました。途中で人に聞いたかもしれません。

そんなこんなでやっと曽根駅にたどりつき、帰ろうとした時です。
多分そこで再度また誰かに聞いたのかもしれません。
そしたら、たしか駅の反対側だったようにおぼえていますが、問題の「豊島公園プール」には簡単に行けることがわかったように記憶しています。たしかその後そのプールで少し遊んで、帰ったのをおぼえています。

この話は「オチ」はなく、これでおしまいですが、どちらかというと他のどのプールよりも詳細ではありませんがその時の経緯の記憶が残っていて、印象深いできごとであり、プールでした。

しかし読み方を「てしまこうえんプール」と読むのは、今の今まで知りませんでした。
たぶんここまでこのプールにこだわった人たちの中でも上位に入るような思いでがあるのに、です。

自分でもそう思う理由はよくわかりませんが、、「閉鎖」されたのをきわめて残念に思っています。

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偶然ネットで知人の歌手のスケジュール表を見ていたら、30日になんと鳩ヶ谷でライブステージがあると書いてありました。たまたまその方から別件のライブ情報件でメールの連絡が来た後だったので郷土自慢ではありませんが、どうでもいいようなメールを返信してしまいました。

私が鳩ヶ谷に住んでいたのは、年がばれるのであまり言いたくありませんが、昭和40年前後?から約10年以上でした。(曖昧な表現ですみません・・)個人的には生まれは大阪で、埼玉に移った後も小さい頃はかなり長い期間大阪に入り浸っていましたが、事実上鳩ヶ谷が出身地でもあり、育ったところといえるのかもしれません。

当時のことは記憶からかなり消えていますが、とにかく周りはほぼ完全に農業地域だった、という印象です。
住んだ場所は里というところの西公団という住宅でした。
ただ今の団地とちがい、2階建ての一応鉄筋ではありましたが、一軒一軒はせまい長屋風で、内装も白壁、木、石のたたき、くもりガラスというような造りでした。

住宅が出来たのは昭和33年で、当時は木造平屋やバラックしかない時代だったのでそれなりに新しかったのでしょう。
まだ鳩ヶ谷町だった時分の里という地区の端の、川口の西新井宿という地区との境の田んぼが切れて野山(安行など大宮台地の端?)が始まるところの丘の上に住宅は建っていました。
件数は120軒くらいで、公的な高校や病院以外は近所には田んぼと野山以外にはありませんでした。

子供は皆鳩ヶ谷小学校に通っていましたが、ほどなく山を降りた田んぼの中に里小学校ができて、私はそこに通いました。姉は2年までは鳩小に通っていました。里小はまわりはすべて田んぼで、通学の時は特に梅雨時だととにかくかえるの声がすごくうるさかったのを覚えています。

なぜそんなに遅れていたのかといえば、鉄道がなくどこの駅にもバスで30分くらいかかる場所でした。
同様に隣接している今も日本一の植木の産地で有名な川口市安行(昭和にはいり安行町から川口市に編入)やさいたま市緑区の大門(昭和40年手前くらいまで美園村でその後浦和市に編入。今はスタジアムのある浦和美園駅のある近辺です)なども武蔵野線が開通した後も農村のままでしたが、近年埼玉高速鉄道という都心直通の鉄道が開通すると急に大きく発展を始めました。

いつも出身は埼玉で、「ハトガヤ」というと「えっ?」「クマガヤ?」「コシガヤ?」といわれていました。
そして遂には平成の町村合併で消滅して川口市に編入されてしまいました。

育った頃は「陸の孤島」といわれていたようで、けっこう方言もありました。
人に会う時などは大阪弁は結構かっこうも評判もいいので、もとから関西の家系なのもあり幼少時に聞いていた片言の関西弁くらいはたまに調子に乗って話しますが、鳩ヶ谷で使っていた言葉は、結構はずかしく、いじめられるのではないかと思い、ほぼ完全に東京に来た時点で長年封印してしまいました。

近年方言ブームみたいなものがあって、懐かしさもありたまに口に出すようなことも出てきました。

距離的にあんな東京に近いのに、本当?
と思うかもしれませんが、本当です。それくらい周囲の地域と隔絶していました。

東京に転校していちばん驚いたのは、鳩ヶ谷では全校生徒で3〜4人くらいしか通っていなかった学習塾というものが、東京ではちゃんと近所などあちこちにあり、クラスの半分以上の人が当たり前に通っていたことです。
その時鳩ヶ谷では浦和とかの学習塾にバスで通っている生徒は、それを知られないように隠していたくらいで、ばれると「ガリベン」とか色々いじめられるネタにされていたくらいです。

10年位前に本当に久しぶりに仕事のついでに鳩ヶ谷に行ったときは、すでにもうありきたりな住宅都市になっていました。

今回のイベントも川口市鳩ヶ谷宿(昔日光御成街道の宿場でした)の〜イベントという、題名でした。

自宅だった住宅がすでに取り壊されていることもあり、懐かしい反面、少し寂しい気持ちにもなりました。

実際現在は鳩ヶ谷に関係した人はほぼ誰ともつながりが残っていません。
といいつつも他にも友達の絶対数が少ないので、もとからあまり多くのつながりはありませんが・・。

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追記分(6月19日AM7時22分)
夕方に一旦インフラが回復したように報道されていましたが、夜以降朝の報道ではまだかなり水道などが止まっているようです。新たに欠陥が見つかり止ったところもあるようです。


今朝、朝食を食べていたらいきなり緊急地震速報がありました。
昨日も函館スプリントSのゴールくらいに急に緊急地震速報があり、群馬で地震があったばかりでした。
また方向は違いますので関係ないかもしれませんが、函館の最終レースはどの馬も枠入り後にすごい興奮状態でそのうちの一頭(実は私が買っていた馬でした・・)はゲート内で暴れて怪我をして出走取り消しになったほどです。長年競馬を見ていますが、これほど多くの馬がゲートで同時に興奮するのはあまり見たことはなく、すごく違和感を感じていました。

それはともかく、前日の群馬の地震などと比べると、今日の地震ははるかに規模が大きく、人的にも大きな被害がでました。

お悔やみ、お見舞い申し上げます。

私は親戚の殆どは関西人と北陸で地震のあった地域付近にも複数住んでいます。家族が連絡をとったところは大部分の人は大丈夫だったようですが、個人的に子供の頃からすごく近い従兄弟が豊中南部の庄内というところに単身で住んでいたはずで、昼間では連絡が取れていないようで大丈夫だったか心配していました。ただニュースなどでは大丈夫そうなので、電話も混乱しているようなので追加連絡はしていません。
彼は店が変わっていなければ阪急線の駅(東淀川区)の近くの飲食店の店長をやっているはずなので店も大変かもしれません。
以前東日本の時に東京でレストランをしていた人が地震で食器などの多くが破損して、結局閉店に追い込まれた、という話をきいたことがあります。

また祖父母の実家が以前は長年この地域の豊中の上野(吹田市や千里に近い地域)というところに祖父母の実家があり、当時子供時代は一年に何ヶ月もすごていました。
今は取り壊されてありませんが、阪神の震災の後は家具が倒れたり、壁に大きなひびが入ったりしていたのをおぼえています。阪神大震災は神戸というイメージが強いのですが、豊中あたりはすぐ2〜3キロくらいで伊丹空港がありかなり揺れがひどかったようです。今回は高槻や枚方あたりが震源区域と思われますが、大阪付近は結構狭いので近隣の兵庫県や京都府でも被害が出ているようです。

それから私自身も東日本震災で仕事でいわきの小名浜漁港の近くで被災しました。
当時いわきは震度6弱だったらしいのですが、当時自分では震度6など経験したことはなく、緊急地震が鳴って揺れはじめてからの出来事は今でも忘れられません。

ごおおおおっ、という轟音とともに、ミシミシッ、という建物などがきしむ音がして、その音が今でも耳に残っているくらいです。
周りの家が大きくバウンドするような感じになり、そのうち瓦がすごい音を立てて大量に落ちました。
あとで片付けの時に瓦はすごく重いことがわかり、こんなのに当たったら大変だと思いました。
しばらくするとあちらこちらでサイレンが鳴り始め、となりの大きな駐車場付のパチンコ屋さんにも救急車が来て誰かを搬送して行きました。パチンコ屋さんの大きな建物の屋根の一部が崩落した関係だと思います。
と、急に薄暗くなりいきなり雪が降り出しました。

ほどなく目の前の港から常磐線の泉駅に向かう道路は大渋滞になりました。津波から避難する車が殺到したためだと思われます。

大きな揺れで外に飛び出しましたが、地震の揺れはすごくて地力では立っていられないくらいでした。駐車場のトラックにずっとしがみついていました。揺れがおさまり仕事先の工場の事務所に戻ると中はヒッチャカメッチャカになっていました。

先程テレビで見たら、やはり同じようにコンビニなど店舗の硝子が割れ落ちたりしていました。
当時車も宿泊先もない状態なので避難させてもらえるということで、訪問していた会社の常務の実家に車で連れて行ってもらった途中も、道路が大きく隆起して電柱はことごとく傾いていました。

当時首都圏では余り知られていないかもしれませんが、電気が回復したので翌日のニュースでは福島県内では大規模な土砂崩れ(白河)やため池の決壊(須賀川)などがありかなりの人数の方が犠牲になりました。地元テレビでは何時間も救出活動を中継していました。ただその後段々と判明した津波の被害があまりにひどかったことや原発事故の関係もあり、それ以後はあまり詳しく報道されませんでした。

結局海と事務所の間に大きな工場があり防波堤代わりになったので私のいたところは津波で浸水は免れましたが、その後1年くらいは海に近いところに行けませんでした。

これからしばらく余震に悩まされると思いますが、当時はとにかく水が大事だと感じました。
普段は余り気付きませんが、手を洗えない、トイレが使えないなどはそのことだけではなく、メンタル面も含め体調不良の大きな原因になります。

今回は電気はほぼ復旧、水道もおおかた大丈夫になりつつあるようですが、長時間の電車の立ち往生、エレベーターに閉じ込められるなど都会ならではの被害も多かったようです。私は閉所恐怖症なので考えただけで具合が悪くなりそうです。

すでに大きな被害が出ていますが、これ以上拡大しないことを祈っています。
本当にいつも大きな地震は意表をつくように起きるので驚いています。

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