サイト運営者日記「ぶらぶらうだうだ」&レトロ中心鉄道のコラボサイト

「タウンクリニックドットコム・時代文化ネット」を運営をするアナログ管理人の日記&趣味のレトロ中心の鉄道サのコラボイトです。

(最新更新日:2023年5月5日 掲載日:2008年11月19日)

2008年にスタートした「アナログなサイト管理人日記」と「レトロ中心の鉄道サイト」のコラボサイトです
特急はくたか豪画像1・越後湯沢駅

趣味のレトロ中心の鉄道の話題を中心に、サイト管理人が以前勤めていた証券など金融、競馬、野球などテーマにこだわらない雑感や日記を綴ったコラボサイトです。サイト管理人は2007年から地域情報サイト「タウンクリニックドットコム」を立ち上げ、2014年頃から同時並行で独自の文化資料やテーマ等で文化記録を目指す「時代文化ネット」の運営管理者です。(実は超アナログ人間ですが・・・)

当サイトの本文中の画像、文言等は諸法律に沿って使用しております。またタイトル画面は埼玉県幸手市権現堂(本人が撮影:2012年4月)。またすぐ上の写真は越後湯沢駅に停車中の特急はくたか号(本人撮影:2013年3月)。いずれも無断での転載、転用をかたく禁じます。


jidailogo3 

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◆最近の出来事・最近思ったこと◆ に参加中!
以前に1回記事を書いたことがありますが、府中市の大国魂神社で恒例の「くらやみ祭」が久しぶりに復活するそうです。今はJCOMがテレビ中継するそうです。

と言っても実際に祭りのクライマックスの5月5日の夜に祭を見たことは1度しかありません。
どちらかというと府中街道や旧甲州の毎年の大渋滞の記憶と風景のほうが強烈に記憶に残っています。

ただ高校の時に野球部の練習や試合のない土日にやっていたバイトが、府中の西友前の出店のポップコーンや焼きとうもろこし売りでした。そのからみで「くらやみ祭」でも参道に出店していて、店長から祭りの出店をまかされてやったことはあります。

すごい人で、あっという間に売れてしまいました。
結局昼のうちに売り切ってしまい、そのまま帰宅しました。
ちょうど祭りの出店の応援に来た人たちが府中工業の生徒で、偶然同じ中学で、しかも一人は同級生でそこそこ知り合いで、さらにもう一人は中学の時に仲のよかった友人(彼は第二商業に進学)の弟でした。

たまたまが重なり楽しい1日でした。

夜になると各町内から山車が出て練り歩くのだそうですが、いまだにその光景を見たことはありません。

最近は初詣もコロナの前から、混雑するのでもっと空いている別の神社に行っているくらいで、大国魂神社に行くことは少なくなりました。

今も家族は府中にいますが、当時の友人とはほとんど付き合いもなくなり、だからといって学生時代や会社関係の人とも段々と縁が遠くなり、親戚は関西や北陸ばかりでさらに接点がなくなり、要は人のつながりがどんどん減っているな・・、と感じています。

「諸詮人間は孤独なんだ」と自分に言い聞かせても、すっきりとせず、判然としません。

他の人たちはどんなふうに感じているんだろう?
と思っているところです。

せっかくの「祭」なのに、どんどん違う方へ考えがいってしまいました。

まあ齢も齢だし、しょうがないか〜〜
ちなみに以前は旧甲州沿いの大国魂神社の入口横の交番の近くに、観光事務所のような小さなコーナーがあり、そこでは「くらやみ祭り」の大きなポスターを安価で販売していました。またチラシは無料だったように記憶しています。

今はどうなっているのでしょうか?

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鉄道関係の投稿(基本的には何でもOK) に参加中!
3月〜4月にUsen演歌ランキング2位〜4位にランキングされていた新曲「舞姫」が大好評の「りんともシスターズ」の5月のライブステージ、キャンペーンのスケジュールです。
★下記の内容の詳細は下のバナーをご覧ください。


・5月6日(土)
「ファミリー・フェスティバル」
JR蒲田駅東口駅前広場
17時20分〜17時50分
りんともシスターズステージ

・5月12日(金)
「イオン南越谷店」
『舞姫』キャンペーン
13時30分〜
埼玉県越谷市南越谷1-2876-1
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新曲「舞姫」の動画

新曲「舞姫」のMV
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さてここからは鉄道の記事です。

ー北陸の鉄道写真2・2010・2特急はくたか号と特急雷鳥号ー

厳密に言うと表題の2列車とも現在(2023年)は存在しない列車です。

というのも前者の「特急はくたか号」は北陸新幹線が開通すると同時に越後湯沢ー金沢間の特急列車としては廃止になりました。そして同時に北陸新幹線の各駅停車(東海道新幹線のこだま号のようなスタイル)の愛称として継続されました。
さらに後者の「特急雷鳥号」も雷鳥という愛称を英語化?した「特急サンダーバード号」として基本的に車両も最新の車両を使用した特急として生まれ変わりました。これはかなり前から少しずつこのようなスタイルに変えていったみたいですが、写真はわずかに残っていた485系の「特急雷鳥号」の写真です。
大阪ー金沢・富山間を走る新幹線以外では日本でも指折りのメジャーな特急列車として君臨してきた「特急雷鳥号」です。私も過去に大阪から金沢に行く時に利用したことがありました。その時はこのような経緯をたどるとはまったく思っていませんでした。

写真はともに2010年2月に撮影した、「越後湯沢駅での特急はくたか号」と「金沢駅に停車中の特急雷鳥号」です。また似たような写真も含まれますが金沢に行った時の鉄道関係の写真を順次紹介しようと思っています。
※ちなみに3枚目の雪景色は「豪雪の越後湯沢駅の風景」です。いつも真冬はこんな感じです。逆に雪のないこの駅の姿にはあまり慣れていないくらいです。
2010特急はくたか号1越後湯沢駅2010特急はくたか号2車内写真
2010大雪の越後湯沢駅1
2010特急雷鳥号3金沢駅485系前面写真
2010特急雷鳥号2金沢駅485系車体写真
2010特急雷鳥号1金沢駅行先写真

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私が個人的につながりのある医療機関や士業、事業者さんなどを順に紹介していきます。
最初は、
「医療法人社団歯優会・水道橋歯科クリニック」 です。
TEL:03-3511-3311

医院はJR中央総武線の水道橋駅西口改札を出てすぐのところで、駅からは徒歩約1〜2分くらいのところにあります。

このクリニックを運営する医療法人の理事長とは2005年くらいに知り合いました。すでにかれこれ18年くらいの知人です。私は医療の専門家ではないので詳細なことはわかりませんが、少なくとも現在まで友好関係を続けさせていただいています。もちろん医療とはいえ、事業者なので未来永劫にわたって、双方の色々な事情がかみ合うかはわかりませんが、私が見る限りではこの診療所ではスムーズに医療活動が継続しています。

それから医院の特色としては、出来る限りの徹底した院内感染防止のために様々な対策を行っています。医療器具の滅菌、体温や血中酸素量の測定、医療用マスクはもちろん、院内は建物内部もウイルスコーティングを行っております。

他院内の様子や診療の詳細は下記のリンクよりサテライトページか、サテライトページ内にリンクがあるオフィシャルサイトをご覧ください。

※体調や体質には個人差があること、また対策や成果は絶対的なものではないことをご承知おきください

ちなみにインターネット診療予約ができ、診療は各種健康保険適用です。
診療予約サイト医院専用ページ(EPARK)

・当サイト水道橋歯科クリニックのサテライトページ


※上記の診療内容や対策は2023年4月現在のものです。今後状況の変化や施策の変更等の可能性がありますのでご承知おきください。
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さてここからは鉄道の記事です。

ー鉄道写真・江ノ島鎌倉観光(江ノ島電鉄)の1970年代ー

駅舎の記事でも触れましたが、1977年と78年に2回にわたり江ノ電の沿線を訪ね、下記のように少し写真も撮影しました。2回目(1978年)は友人がテレビドラマ「俺たちの朝」のロケ地を見たいということが主目的でした。というのも出演していた女優さんのファンだったからです。
いずれにしても1回目も2回目も同行した友人は鉄道にはほとんど興味がない友人でした。
※カラー写真は1977年のものです。また白黒写真は1978年のものでテレビドラマ「俺たちの朝」の舞台になった「極楽寺駅」周辺で撮影したものだと記憶しています。車両の知識があまりないので形式は正確に把握していませんがカラーは300形で、白黒は300形と500形ではないかと思われます。間違っていたらごめんなさい・・。
1977江ノ電300形写真1
(1977年300形)
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1977江ノ電300形写真2
(1977年300形)
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1977江ノ電300形写真3
(1977年300形)
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1977江ノ電300形写真4
(1977年300形)
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1978江ノ電300形?写真6
(1978年極楽寺駅付近300形)
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1978江ノ電300系写真1
(1978年極楽寺駅付近300形)
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1978江ノ電300系写真2
(1978年極楽寺駅付近300形)
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1978江ノ電300系写真3
(1978年極楽寺駅付近300形)
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1978江ノ電500形?写真4
(1978年極楽寺駅付近500形)
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1978江ノ電500形?写真5
(1978年極楽寺駅付近500形)
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1978江ノ電500形?写真7
(1978年極楽寺駅付近500形)

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私が個人的につながりのある医療機関や士業、事業者さんなどを順に紹介していきます。
2回目は、
「医療法人社団歯優会・神田今川橋歯科クリニック」 です。
TEL:03-5209-2555

医院はJR・東京メトロ銀座線の神田駅から中央通りを新日本橋駅方面に少し進み、すぐ左に曲がったところで、駅からは徒歩約2〜3分くらいのところにあります。また新日本橋駅からも徒歩で約5分で交通は至便です。

このクリニックを運営する医療法人の理事長とは2005年くらいに知り合いました。すでにかれこれ18年くらいの知人です。私は医療の専門家ではないので詳細なことはわかりませんが、少なくとも現在まで友好関係を続けさせていただいています。もちろん医療とはいえ、事業者なので未来永劫にわたって、双方の色々な事情がかみ合うかはわかりませんが、私が見る限りではこの診療所ではスムーズに医療活動が継続しています。

デジタルレントゲン、デジタル映像のモニターを完備しています。また新型コロナウイルスに限らず感染症や院内感染防止のために医療器具等、現在の情勢で出来る限りの対策を行っているようです。詳細は医院オフィシャルサイトに記載してありますのでご覧ください。
※体調や体質には個人差があること、また対策や成果は絶対的なものではないことをご承知おきください。

ちなみにインターネット診療予約ができ、診療は各種健康保険適用です。
診療予約サイト医院専用ページ(EPARK)

それから医院の特色としては、まずは診療室がプライバシー保護には有効なすべて半個室の形態になっています。それから歯科衛生士3名を配して、専用の機材を活用した歯の定期的なクリーニングなど予防歯科には以前から大変力を入れているようです。

それからTwitterなどで最新の情報を患者さんのみならずSNS上でも発信しているようです。
・当サイト今川橋歯科クリニックのサテライトページ


※上記の診療内容や対策は2023年4月現在のものです。今後状況の変化や施策の変更等の可能性がありますのでご承知おきください。
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さてここからは鉄道の記事です。

ー鉄道写真・現役も含むレトロ駅舎・懐かしの駅舎1ー 
※下記の写真の中には現役の駅舎も含まれます。また随時一部ずつ駅舎や駅の施設、鉄道施設の写真を公開していきます。

・鎌倉駅旧駅舎(横須賀線、1978年)
友人と鎌倉というか、江ノ電の極楽寺駅に行った時に撮影したものです。鉄道とは直接関係なく友人が当時流行っていたテレビドラマ「俺たちの朝」に出演していた女優のファンでドラマの舞台だった下記の「極楽寺駅」を訪ねた時に乗り換えたので、下車した時に撮影しました。江ノ電の車両も結構撮影したので次回の掲載の時にそれ以前のものも含めて紹介しようと思っています。現在の鎌倉駅は写真の旧駅舎と同じスタイルで建て替えられたもので、一瞬「今の駅舎では?」と思われるかもしれませんが、今の駅舎は1984年に改築されたものです。その後も仕事で客先がありこの駅には頻繁に訪問しましたがすでに新駅舎になっていました。
1978年鎌倉駅旧駅舎写真1
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・極楽寺駅旧駅舎(江ノ島鎌倉観光ー現江ノ島電鉄、1978年・保存)
上記の通りですが、この「極楽寺駅」の駅舎も改築されたみたいなので掲載しました。
1978年江ノ電極楽寺駅旧駅舎写真1
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・小諸駅旧国鉄の駅名看板(信越本線、1978年)
この写真は単なる国鉄時代の信越本線・小諸駅のホームの駅名の看板です。なんてことない写真と思っていたら、少なくとも私がネットでGoogieの画像検索で小諸駅の駅名看板の写真を調べたら、JR移行後の「カラー看板」か「しなの鉄道」に移行後の駅名看板しか掲載されていませんでした。実際にはこの手の写真は複数存在していると思われますが、ネット上ではある意味希少な写真であることがわかり自分でも驚いています。この写真は特に意味もなく撮影したものですが、以前掲載しましたが高校1年の時に信州ワイド周遊券を使用して友人と3人で信州を鉄道で回る旅行に行った時のものです。
1978年国鉄時代の小諸駅の駅名表写真1
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・軽井沢駅旧駅舎(信越本線、1983年・保存および他社により運用中)
これは他サイトにも掲載しましたが、大学3年の時に大学の文化会「民話愛好会」で長野県の民話の採集訪問の合宿に行った時に、最終日に皆で軽井沢に寄り、半日くらい遊んだ時に駅で駅舎をバックに記念写真を撮った時のものです。現在は長野新幹線開業とともに最新の橋上駅舎が完成し、旧駅舎は一時移設され見学だけできるようになっていましたが、前出の第三セクターの「しなの鉄道」の軽井沢駅舎として別の場所で復活して使用されているようです。古くから有名観光地でもあり、建築物には凝った地域なので、かなり歴史のある由緒ある駅舎のようです。
1983年軽井沢駅旧駅舎写真2
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・高尾駅の駅舎(中央本線、1978年・現役)
こちらはつい最近まで現役の駅舎として有名な駅舎でした。ところが中央線でいうと国分寺駅と同様に駅の両側を通過できる自由通路がなく、大変不便だということでどうも最近都市計画の一端として建て替えらる予定になっています。東京五輪やコロナ等で着工が遅れましたが、着工のめどが立ったようです。完成すれば写真の旧駅舎は近所の移設されて保存され、公的な施設として利用される予定のようです。

高尾駅は高尾山の観光の玄関口であるとともに、最近出来た近所の大学の駅、また始発駅ということで都心から距離があるにも関わらず「通勤時に座れる駅」、そして「酔っ払いの終着駅」として有名な駅です。以前は「浅川」という駅名で、天皇の墓などがある「多摩御陵」の最寄駅として知られていたということです。駅舎もその関係でこのような駅舎になったみたいです。写真は上記の小諸駅の管馬を撮影した旅行の時に最初に普通列車に乗車したのが高尾駅でその時に撮影したという記憶があります。
高尾駅駅舎1978写真2
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・国立駅旧駅舎(中央線、2005年・保存)
国立はご存知の通り一橋大学や桐朋学園、国立高校などの学園と高級住宅街の街として、古くから整備された街です。学園や古くからの高級住宅街は南口に集中しています。駅前には大きなロータリー、さらにそこから一直線にのびる広い大通りがあります。写真は国立南口の名物だった旧駅舎です。2006年に駅舎としての使命を終え一旦解体されましたが、地元住民の要望などもあり、駅の再開発事業の一環として高架になった駅や線路に対応した新駅舎の近くに2020年に復元され、現在は「旧国立駅舎まち案内所」などに利用されているようです。
国立駅1
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・四方津駅旧駅舎(中央本線、2010年)
写真は2010年に「青春18きっぷ」を使用して家族と勝沼に電車で遊びに行き、帰り道に電車内から撮影したものです。中央本線は近年は大月までは「通勤路線」として東京行の快速電車などが運行されています。沿線の人口も急増していますが、実は桂川(相模川)が急激に山間に入るような険しい区間です。この駅の近くには有名な中央高速道路の「談合坂サービスエリア」があります。以前に隣りの上野原駅からバスで1時間ぐらい山奥に入ったところに何回かキャンプのようなことをしに行きました。また災害に絡んだ道路渋滞で「談合坂サービスエリア」に車を置いてきた時に、車を取りに行くために仕事が終わってから夜遅くに下車したことがある駅です。今は駅より一段高いところにある住宅街に直通のエレベーターも完成、新駅舎とともに利用されているようです。
四方津駅舎1
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・日光駅の駅舎(JR日光線、1995年くらい?・現役)
家族と日光に遊びに行った時に撮影しました。関東で育った人間には珍しく30歳を超えて初めて日光に行きました。浅草も同様です。さらにこれは自慢ではなく、、自虐に近い話ですが、東京タワーに上ったこともなく、東京ディズニーランドも1回も中に入ったことはありません(湾岸の渋滞で車がオーバーヒートしそうになり、引き返したことはあります・・)。

歴史のある古い駅舎でしたが、実際は客の大半は東武鉄道の有料特急を利用するようです。
宇都宮ー日光間のJR日光線車内も、駅構内も観光客はまばらでした。そして駅には以前からの歴史や施設が展示されていて、博物館のような感じでした。すでに時代の遺物というか、一種の文化財なのかもしれませんね。
日光駅駅舎写真1
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・日野駅の駅舎(中央線、2017年・現役)
この駅舎はなぜかまだ現役のまま運用されているはずです。今後どうなるなどの情報はまったくわかりません。ネットなどによれば民家風の建物らしいのですが、詳しいことはわかりません。ちょうど中央線が多摩川を渡り低い土地から少し標高の高い崖上にかかったところでちょうど駅が作られたのでは?というイメージです。ですからというわけではありませんが、駅の改修は簡単にできないのか?、それとも市の中心駅でありながら乗降客も比較的少ないのでは?と色々想像してしまいます。
「お前が余計な心配するなよっ!」と言われてしまいそうです。
日野駅舎3
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・函館駅旧駅舎(函館本線、2003年)
証券会社のサラリーマンの営業社員だった私が無鉄砲にも退社して、外資系保険会社、いわゆる歩合制のセールスマンの世界に飛び込んだ年に、私の家族が自分の家族とツアー旅行に行った時に函館市内をバスで移動中に撮影した写真とのことです。私は当時は旅行に行くような心の余裕はなく、辞退しました。

もちろんそれ以前に青函連絡船を利用した時などこの駅をよく利用しましたので、個人的にも馴染みのある駅舎ではあります。特に1983年の北海道旅行の時は台風の直撃を受けて、帰りにこの駅で青函連絡船が出航すれば命がけ?(昔の洞爺丸台風のように・・)か、もしくは出航しなければ函館に足止めされて、資金が底をつく可能性があり、こちらも困った事態になるのでどちらにしても大変な選択を迫られた思い出がありました。結局船は出航して大きく揺れましたが無事に青森に着くことができました。

今は新幹線が函館まで開通して、函館駅は新幹線の駅はできませんでしたが、この駅も地域の中心駅として立派な駅舎に生まれ変わりました。
函館駅舎2003改築前写真1

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私が個人的につながりのある医療機関や士業、事業者さんなどを順に紹介していきます。
最初は、
「医療法人社団歯優会・東中野歯科クリニック」 です。
TEL:03-3367-1464

医院はJR・都営地下鉄大江戸線東中野駅の西口から山手通り沿いに渋谷方面に徒歩で約3分くらいのところです。

このクリニックを運営する医療法人の理事長とは2005年くらいに知り合いました。すでにかれこれ18年くらいの知人です。私は医療の専門家ではないので詳細なことはわかりませんが、少なくとも現在まで友好関係を続けさせていただいています。もちろん医療とはいえ、事業者なので未来永劫にわたって、双方の色々な事情がかみ合うかはわかりませんが、私が見る限りではこの診療所ではスムーズに医療活動が継続しています。

顕微鏡(マイクロスコープ)やデジタルレントゲン、CTスキャンなどを活用して最新の治療を行っています。また新型コロナウイルスに限らず感染症や院内感染防止のために医療器具だけではなく、血中酸素濃度測定等現在の情勢で出来る限りの対策を行っているようです。詳細は医院オフィシャルサイトに記載してありますのでご覧ください。
※体調や体質には個人差があること、また対策や成果は絶対的なものではないことをご承知おきください。

ちなみにインターネット診療予約ができ、診療は各種健康保険適用です。
診療予約サイト医院専用ページ(EPARK)

それから医院の特色としては、歯の定期的なクリーンニングなど予防歯科には以前から大変力を入れているようです。


※上記の診療内容や対策は2023年4月現在のものです。今後状況の変化や施策の変更等の可能性がありますのでご承知おきください。
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さてここからは鉄道の話題です。
※一部写真は他サイトに掲載した写真もありますが、コメントは独自に作成しています。

ー鉄道写真番外編2・ロムニー鉄道・京福および京阪電鉄関係・身延線旧型国電などー

・修善寺虹の郷・ロムニー鉄道(1995年)
家族と伊豆に旅行に行った時に修善寺温泉に宿泊しました。翌日は「虹の郷」というテーマパークに行きました。花畑など色々な施設があり、園内にはイギリス村とカナダ村を結ぶ鉄道がありました。日によってはSLが走っているようでした。ただ当日はSLの運行はなく小さなディーゼル機関車に引かれた客車列車が運行されていました。後で知りましたが立派な地方鉄道だそうです。「ロムニー鉄道」という名前でしたが、線路幅は15インチ(約38センチ)だそうです。説明によるとこれ以上狭いゲージは模型になってしまうそうです。イギリスではこのような鉄道が実際に複数存在しているそうです。おそらく約1キロ少しくらいで約10分の乗車でした。

伊豆修善寺虹の郷ロムニー鉄道写真1伊豆修善寺虹の郷ロムニー鉄道写真2
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・京福電鉄(現叡山電鉄)叡山線(1979年)

京都に行き、比叡山に行った時に利用しました。当時は京福電鉄の叡山線と鞍馬線で、乗車したのは始発駅の出町柳で、叡山線の終点八瀬遊園(現八瀬比叡山口)まで乗車しました。終点からは比叡山のケーブルが出ていたからです。今は京阪電鉄(事実上は京福の親会社)の資本に変わりました。さらに三条京阪から出町柳間も鉄道がつながり大変便利になりました。
叡山電鉄(京福叡山線)写真1
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・京阪電鉄(1979年)

写真は淀屋橋と京都を結ぶ京阪本線ではなく、多分京津(けいしん)線と石坂線のターミナルの浜大津駅か、さもなければ比叡山から下った石坂線の終点である坂本駅かどちらかだと思います。あまりに古い写真なので正直忘れました。
当時は京津線はまだ京都地下鉄開通前で、山科などを経由して京阪三条から東山を越えて浜大津までいっていました。もちろん地上のみの運行で、京都市内では場所によっては路面電車的な雰囲気もありました。
京阪電鉄写真1
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・嵐電(京福電鉄嵐山線)(1998か99年)
こちらは今も京福電鉄が運営する半路面電車で、車体は基本的に路面電車の様相です。
やはり京都に行き、嵐山に行った帰りに阪急の大宮駅に行く時に乗車しました。途中で下車して「広隆寺」も見学しました。ただ当時も今も車両は大きな変化はないようです。
京福電鉄嵐山線(嵐電)写真1
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・嵯峨野観光鉄道(1998年か99年)
上の「嵐電」に乗車する前にJRで京都駅から嵐山方面に行った時にたまたまトロッコ列車が駅に停車していて、聞いてみたらすぐ乗れるようだったので迷わず乗車しました。以前の山陰本線の旧線路に観光列車を走らせて、保津川(桂川)の渓流を見物できる観光路線として再スタートさせたのが始まりのようです。福知山線の宝塚〜道場間の武庫川沿いと同様に通勤路線として電化やスピードアップさせたようですが、福知山線と違うのは観光地であることだと思いますが、全国でも珍しい成功例だと思っています。当然運営はJR西日本が全額出資する会社のようです。
嵯峨野観光鉄道(トロッコ列車)写真1嵯峨野観光鉄道(トロッコ列車)写真2
嵯峨野観光鉄道(トロッコ列車)写真3
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・身延線旧型国電(1979年)

高校の同級生2人と3人で、日帰りで高尾から甲府〜身延線経由〜で富士〜東海道線で東京を鉄道で一周したときの写真です。一日中鉄道に乗っていたのですが、唯一身延線のどこかの駅で下車して近くの富士川の河原で少しのんびりしました。身延線は当時は飯田線、大糸線と並ぶ旧型国電の三大牙城といわれていた線区です。ただ沿線に有名観光地は少なく、少々地味で、行った当時も鉄道ファンや観光客はほとんどいなかった、という記憶があります。私は詳細な車体マニアではないので、詳しい型式はあかりませんでしたが、けっこうバラエティーに富んだたくさんの旧型国電を見物することはできました。また当時はすでに「急行富士川号」は80系ではなく新性能化されていました。
身延線旧型国電写真1甲府駅身延線旧型国電写真2甲府駅
身延線旧型国電写真3内船駅
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・成田エクスプレス253系(1994年)

新婚旅行の帰りに成田空港からの帰路に成田エクスプレスを利用した時の写真です。現在はカラーリングが同じのE259系電車が運用されているようです。本来この列車に乗車するのが目的ではなかったのであまり詳細の記憶もなく撮影した写真はあまりありませんでした。

成田エクスプレス253系電車写真

ブログネタ
鉄道関係の投稿(基本的には何でもOK) に参加中!
4月12日付Usen演歌・歌謡曲部門で4位にランクされた新曲「舞姫」が大好評の「りんともシスターズ」がラジオ日本の番組に出演します!

概要は下記で、詳しくは下記のサイトをご覧ください。


またラジオから直接聴取する以外にインターネットラジオ「Rdiko」でも聴取可能です。

番組
「ミックスシャワー」

4月23日(日)AM4時30分〜5時 (土曜日の深夜)
周波数:AMは1422KHz、FMは92.4MHz

・Rjikoオフィシャルサイト・ラジオ日本のページ(インターネットラジオ)


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新曲「舞姫」の動画

新曲「舞姫」のMV
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さてここからは鉄道写真です。
今回は一つのテーマで記事を作れなかった番外編の写真です。

※一部は他のサイトで公開した写真も含まれます。ただ同じコメントではありません。

ー鉄道写真番外編1・昭和〜平成編ー
・上野動物園モノレール
これは最近話題になりましたが、惜しまれながら2019年に運転を休止した路線です。東京都が運営していた路線で園内の一部区間で運行されていました。移動というよりは遊園地の乗り物のように動物園に来援する家族連れには楽しみの一つになっていたと思われます。
09上野動物園モノレール写真1
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・西武山口線「おとぎ電車」
現在は多少路線を短縮して「レオライナー」という名前の新交通システムとして運行されています。
写真は1974〜75年くらいです。私が東京に引っ越してきてすぐで友人と初めて遠出で遊びに行った時のものです。当時は多摩湖とユネスコ村を結ぶけっこう長い距離を走る鉄道で、軽便鉄道でした。個人的な話になりますが、国営放送でそこにSLが走っているという番組があり、面白そうなので行ってみました。ただ当日はSLは運行されていなくて写真のように蓄電池型の機関車が小さな客車を数量牽引して運行されていました。名前の通り遊園地の「おとぎ電車」の規模を大きくしたような列車でした。距離は3キロ以上だったと思います。
1974西武山口線おとぎ電車写真11974西武山口線おとぎ電車写真2
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・大宮駅に停車していた?165系の急行列車(1978年)
題名に記載しましたが、列車名や上り下りの別もおぼえていません。他の記事に掲載した上野発一関行客車普通列車を見にいき、大宮まで乗車した時についでに撮影した写真です。今となってはすでに廃車になっている車両ですが、当時は当たり前のように首都圏を走っていた車両で駅にいた鉄道ファンですら殆ど見向きもしなかった列車です。
1978年165系電車写真1大宮駅
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・青函連絡船の船上にて(1983年)
初めて北海道に行った時はまだ一般旅行者には飛行機かこのルートが主流でした。
当時の鉄道旅行では一番ポピュラーな「北海道ワイド周遊券」を利用しました。
上野から急行十和田1号で青森に行き、そこから連絡船に乗りました。写真では青函連絡船かどうかも不明なくらいの写真です・・。帰りは台風が接近して運航中止になるか、運航して命がけの航海になるかというような場面でした。その後もこの旅行の往復を含めて青函連絡船には合計4回しか乗りませんでした。この連絡船の廃止以降、交通だけでなく社会が激変したという印象があります。
1983年青函連絡船写真1
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・中央線普通列車115系電車の車内にて(1990年代?)
現在を考えれば、当時が最盛期?だったと思われる「青春18きっぷ」を利用して日帰りで中央本線で諏訪近辺を往復した時の写真です。往きはJRが「青春18きっぷ」用に運行した?と思われるたしか「はっぴー清里号」という列車で行きました。このころは国鉄型の急行型車両なのに車内は新幹線の初期のころの座席を配置した車両がけっこうありました。この列車もそのひとつだったと記憶しています。よくおぼえていませんが帰りはこのように途中まで現地で走っていた115系の普通列車に乗り、最終的には同じような列車で帰ったという記憶があります。基本はほぼ往復しただけのなんてことはない一日のトリップでしたが、せちがない日常から1日離れることができた、というおぼえがあります。
1990年代中央線115系車内写真1
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・横川駅で電気機関車を増結する「ホリデー快速軽井沢号」(1997年夏くらい)
写真は長野行新幹線(現北陸新幹線)が開通する寸前の信越本線横川駅で峠越えの専用電気機関車を増結する時の「ホリデー快速軽井沢号」です。これも「青春18きっぷ」を活用して家族と日帰りの軽井沢観光をしました。写真のようにこのような作業があるため横川駅は原則全列車が長時間停車して、名物の「峠の釜めし」が飛ぶように売れていたのをおぼえています。ホームでの立ち売りもあったと記憶しています。しかしこの直後に新幹線が開通して信越本線は分断、横川ー軽井沢の鉄道は廃止されました。その後も北陸新幹線は金沢まで開通、来年には敦賀に延伸されます。軽井沢より先のJR路線はすべて第三セクターの運営になりました。日本の鉄道技術の粋を結集した横川ー軽井沢間は鉄道遺跡となり、今はバスのみの運行です。
1997年ホリデー快速軽井沢号写真1横川駅1997年ホリデー快速軽井沢号写真2横川駅
1997年ホリデー快速軽井沢号写真3横川駅
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・越後湯沢駅に停車中の115系新潟色電車(1999年くらい)
私は個人的に両親の出身地で、本家(取り壊し済み)があり30歳まで本籍地だった金沢に行く用事が多く、当時上越新幹線から特急はくたか号に乗り換えた越後湯沢駅で撮影した写真です。今は北陸新幹線があるので楽にはなりましたが、当時は駅内にたくさんの名産品店がならぶ越後湯沢駅でのひと時が楽しみでした。写真ははくたか号を撮影しようとした時に試しに撮影した1枚です。
1999年頃?越後湯沢駅115系電車写真1
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・新潟駅に停車中の快速「ムーンライトえちご」とキハ58?(2001年くらい)
新潟競馬場の大改修が完了したので、1日競馬を楽しみ「青春18きっぷ」を活用して快速「ムーンライトえちご」で新宿ー新潟間を往復した時の写真です。さすがに会社勤めの途中で往復座席夜行列車の往復はしんどかったのをおぼえています。ちなみに一緒に写っているキハ58だと思いますが、急行型気道車の普通列車は内部が改造されすべてロングシートになっていた車両が多かったのをおぼえています。
2001年頃新潟駅165系ムーライトえちごと2次新潟色キハ58系写真1

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3月末〜4月上旬に高松市2会場で画家・長尾周二&佐藤ひろみ2人展が開催されます。詳細は下記のサイトをご覧ください。

大西・アオイ記念館
会期:2023年3月28日(火)〜4月9日(日)
時間:9時30分〜17時30分(入館は17時まで)
ギャラリーフォレスト
会期:2023年3月31日(金)〜4月5日(水)
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さてここからは鉄道の記事です
ー北陸の鉄道1国鉄型気道車・電車の普通列車ー

多分2000年の初頭だと思いますが、ほとんど大きな目的もないのに、いつもは用事で行っている北陸に、今回は鉄道乗り回しや撮影などのためにフリーで旅行に行きました。ちょうど友人も「俺も行くよ」ということになり2人で行きました。ちなみに友人はまったく鉄道には興味がない人間です。

まず金曜日に会社が終わった後に、上野駅から発車する急行「能登号」のグリーン車に乗り込みました。特急「北陸号」や急行「能登号」は以前から用事で金沢に行く時は会社が終わってから乗れるのでよく利用していました。
急行能登号489系電車画像1
昭和50年代は旧型客車で10系の寝台とグリーン車、普通車の混成編成でした。その後たしか14系化されたのではないかと記憶していましたが、すでに489系に電車化され、寝台は連結されていませんでした。正確かは不明ですが金沢運転所所属のボンネット型車両で歴史を感じる車両でした。そのためかトイレは和式で、連結器付近はすきま風がピューピュー吹き込み、冬だったので夜中にトイレを利用した時は寒いくらいでした。よく見ると一部のところに雪が吹き込んで積もっていました。写真は別の機会に撮影した乗車した急行「能登号」です。

・大糸線キハ52系気動車
大糸線糸魚川駅キハ52系写真1大糸線糸魚川駅キハ52系写真2
大糸線糸魚川駅キハ52系写真3
急行「能登号」は明け方に糸魚川駅に到着しました。まずここで下車です。
ちょうど同じころに大阪発新潟行の急行「きたぐに号」が到着しました。電車の寝台車を連結した58系電車です。数年後に新潟で競馬をした後に大阪に行った時に寝台車に乗車しましたがガラガラで、ある意味恐いくらいでした。今回はもちろん乗車しませんでしたが、普通車は結構混雑していて皆向い合わせの座席でお互いに足を投げ出して寝入っていました。

本題に戻りますが、糸魚川駅では大糸線ので旧型気道車としてすでにファンの間では人気が出始めていた「キハ52系」を撮影するためです。列車はほどなく始発の糸魚川駅に入線しました。まだ塗装は国鉄色に塗り替わる前でファンはほとんどいませんでした。

この後はよくおぼえていませんが、普通列車で富山へ行き立ち食いそばで朝食をとり、さらに列車で高岡に行きました。

以前会社の先輩がたまたま高岡の人でした。
歳も近く年末に私が用事で金沢に行った時に車で一緒に帰省して彼の実家に泊めてもらったことがありました。向うのお母さんが朝食に作ってくれた「たら汁」が美味しく忘れられません。金沢ではあまり頻繁には食べない料理でした。

高岡は加賀藩で、金沢同様工芸や職人の街で、大阪の従弟が奈良の仏壇屋に就職したら、入社の時の研修は高岡だったという話を以前聞いたことがあります。彫刻や仏壇も有名なようですが、高岡の一番有名な工芸は鋳物だそうです。

そして高岡駅には列車が沢山停車していました。富山県は面積のわりには地方とは思えないくらい鉄道の発達した県です。

当時は北陸本線(現在は北陸新幹線とJRから移管された第三セクターの鉄道2路線)、JR高山本線、JR城端線、JR氷見線、富山地方鉄道(市内線路面電車を含む)、富山ライトレール(旧富山港線)、万葉線、黒部峡谷鉄道とバラエティーにも富んでいます。

まず高岡駅に発着したり、駅付近の留置線に停車している氷見線や城端線の気動車キハ58系、北陸本線に普通列車として運用されている455系、旧58系寝台電車を改造して「食パン」の異名を持つ419系などを撮影しました。
・氷見線・城端線用のキハ58系
氷見線城端線高岡駅キハ58系写真1氷見線城端線高岡駅キハ58系写真2
氷見線城端線高岡駅キハ58系写真3
氷見線城端線高岡駅キハ58系写真4
・城端線キハ40系
城端線高岡駅キハ40系写真1
・北陸本線普通列車用の419系
北陸本線高岡駅419系写真1
北陸本線高岡駅419系写真2
・北陸本線普通列車用の455系
北陸本線高岡駅455系写真1北陸本線高岡駅455系写真2
・北陸本線普通列車用の419系・455系そろい踏み
北陸本線高岡駅419系・455系写真3
さらに氷見線の発車ホームに行き氷見線でちょうど発車を待っているキハ40系気動車を撮影して、さらに乗り込みました。往きは空いていました。列車はほどなく終点の「氷見」に到着しました。

「氷見市」は富山県ですが、実は半分能登半島の街です。現在は交通は不便なようですが、車でしばらく北に行くと七尾に着きます。「氷見」は私の母方の祖母の生まれ故郷でもあり、さらに愛媛県で生まれ丹後半島で育った私の家族の父親の本家のあるところだそうです。「ぶり」で有名ですが、私は当時から「氷見」といえばカリカリに焼いて食べる「みりん干し」でした。関東や東北の「みりん干し」とまったく違う食品といっても過言ではないくらいの姿です。私は家の関係で「みりん干し」といえばこの「氷見」の「みりん干し」です。
・氷見線キハ40系普通列車
氷見線高岡駅キハ40系写真4
氷見線高岡駅キハ40系写真1
駅を降りてしばらく歩くと地元住民用のスーパーがありました。
そこで1パックで200円以下で買える「みりん干し」を買いました。
そして氷見駅に戻り、また高岡行きの普通列車に乗車しました。
今度は休日で高岡に行く人が多いのか?、列車は混雑していました。
氷見駅舎写真1
氷見線氷見駅キハ40系写真2氷見線キハ40系車内写真3
そして高岡駅に戻りましたが、すでに私は目標をほぼ達成できたので、今度は友人の番です。
特急北越に乗車、一気に新潟に行きました。
そこで新潟に勤務している他の友人宅に行き、鉄道を離れた旅行になりました。
新潟市内の飲食店で夕食を食べ、私は新幹線で帰京しました。

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3/25に歌手りんともシスターズが「USEN演歌・歌謡曲ランキングで2位(3/15付)」にランクされた新曲「舞姫」の「御披露目会」を開催します。詳細は下記のバナーをクリック又はタップするか、事務所や彼女たちのSNSでご覧ください。
※会場での参加は満席になっているケースもございますのでご承知おきください。
りんともシスターズ画像3・情熱の砂漠
概要
2023年3月25日(土)
場所:新宿ガルロチ
・オフィシャルサイト
(下記バナーをクリック又はタップしてください)

新宿区新宿3−15−17伊勢丹会館6F
電話03-6274-8750
時間:1部18時〜18時30分、(休憩15分)、2部18時45分〜19時20分
費用:10000円(税込)
バイキング形式のお食事&飲み放題、CDお土産付
Google map
(下記バナーをクリック又はタップしてください)


配信ライブ
上記「御披露目会」は配信ライブによってインターネット動画でもご観覧いただけます。
費用:3000円
※チラシをお持ちの方はチラシ内のQRコードから読み取ってご利用になるか、所属の三喜プロモーションにお問合せください。

ご予約やお問合せ先
三喜プロモーション
電話(平日10時〜17時):03-3452-1128
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新曲「舞姫」の動画


新曲「舞姫」のMV
※上の画像表示や動画へのリンクはりんともシスターズの提供もしくは、本人の許可を得たうえで掲載しております。
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参考
それぞれ下記バナーリンクをクリックまたはタップしてください
・三喜プロモーション・りんともシスターズのページ

・りんともシスターズTwitter


・斉藤林子Twitter

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さてここからは鉄道の話です

ー東海地区の吊り掛け駆動電車中心の鉄道写真ー

廃止になったり、釣り掛け駆動車が一掃された鉄道も含みます。
写真はすべてサイト管理者が2000年〜2001年ごろに撮影したものをスキャンして掲載しています。
2000年くらいまでは全国各地の地方私鉄や大手私鉄の一部の支線には釣り掛け駆動の車両が現役で活動していました。例えば東武野田線や舘林付近の東武線支線の普通列車、また名鉄瀬戸線などはよく知られていました。私も仕事で舘林に行った時や、東武野田線に乗る機会が何度かありましたが、姿は新性能車と大差はありませんが、駆動は発車の時に「ガ〜〜〜〜」という吊り掛け特有の音で、少々驚いたことが何度かありました。写真はまだサラリーマンの時に乗りに行ったり、たまたま関西方面に行く用事の途中で寄り道して乗車したり、撮影したものです。

・名鉄谷汲線(廃止)
JR岐阜駅から10数分歩くと名鉄の新岐阜駅がありました。そこからしばらく混雑した路面電車のような路線(揖斐線・廃止)で約40分くらい行くと黒野駅に到着しました。そしてここからが旧型電車の宝庫だった谷汲線です。すでに廃止の話も出ていたので鉄道ファンがたくさん乗車、さらに線路際にはたくさんの撮影する人たちの姿がみえました。谷汲線は「谷汲山華厳寺」の参拝のためという目的も含めて運行されていたようです。終点の谷組の駅舎はかなり立派な駅舎でした。沿線は富有柿の産地でちょうど秋だったので柿の実がたわわに実っていた印象です。電車はモ750形が中心で、車庫にはあの名車であるモ510形も入庫されていました。
名鉄谷汲線車両モ510形写真2名鉄谷汲線車両モ510形写真3
名鉄谷汲線車両モ750形写真1
名鉄谷汲線車両モ750形写真4
名鉄谷汲線車両モ750形写真5
名鉄谷汲線車両モ750形車内写真6
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・近鉄内部・八王子線(現四日市あすなろう鉄道、八王子線は廃止)
当時は近鉄の路線で、釣り掛け駆動の車両が狭軌のナロウゲージの線路を走る特殊な路線の一つでした。現在は途中から分岐していた八王子線は廃止され、内部線のみが「四日市あすなろう鉄道」として継続して運行されています。車両は写真のような車両でしたが、現在は260系という車両が中心に運用されているようです。
近鉄内部・八王子線車両ク110形写真1近鉄内部・八王子線車両ク110形写真2
近鉄内部・八王子線車両ク110形写真3
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・近鉄北勢線(現三岐鉄道北勢線)
JR、近鉄の桑名駅の近くに「西桑名駅」という駅がありそこからやはり前述同様に近鉄の特殊な路線の一つ「北勢線」が走っていました。釣り掛け駆動の車両に狭軌と前出の「内部・八王子線」同様の内容でしたが、こちらは三岐鉄道に移管され継続して運行されています。
近鉄北勢線車両270系写真3近鉄北勢線車両270系写真1
近鉄北勢線西桑名駅写真2

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・豊橋鉄道渥美線
豊橋鉄道は一般の鉄道で伊良湖方面の三河田原までの表題の「渥美線」と市内線の路面電車に分かれています。現在はすでに新性能のカルダン駆動車に置き換えられましたが、当時は名鉄から譲渡された7300系という吊り掛け駆動車がまだ運行されていました。車内装備的にはほぼ新性能並の車両でしたが、あのモーター音は紛れもなく「吊り掛けモーター」の音でした。
豊橋鉄道渥美線車両7300系写真2豊橋鉄道渥美線車両7300系写真1
豊橋鉄道渥美線車両7300系写真3
豊橋鉄道渥美線車両7300系写真4

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・三岐鉄道
四日市の帰りに富田駅に停車していた従来の三岐鉄道の車両を撮影したものです。明らかに西武鉄道で走っていた車両で、もちろんカルダン駆動のようでした。現在も現役で活躍しているようです。
三岐鉄道801系車両写真1三岐鉄道801系車両写真2

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画家・中尾真寿美が2023年3月6日〜12日に東京・銀座幸伸ギャラリーで個展を開催します。
中尾個展23032

ー概要ー
銀座幸伸ギャラリー (2F)
3月6日(月)〜3月12日(日)
営業時間:11時〜18時
初日は12時から、最終日は16時まで
東京都中央区銀座7-7-1 銀座幸伸ビル 1階・2階
※東京メトロ・銀座駅A2出口から徒歩約5分、詳しくは下記のGoogle mapか、ギャラリーホームページ(下にリンクあり)のアクセスをご覧ください。


参考
中尾真寿美オフィシャルホームページ





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さてここからは鉄道の記事です
※サイト管理者が1978年夏に長野県を旅行した時の写真をスキャンして掲載したものです

ー長野県の旧型国電など懐かしの鉄道写真(1978年)ー

私が高校1年の時に高校の同級生2人と3人で長野県に旅行に行きました。
当時は野球部に入っていましたが、夏の大会が終わり、秋の新人戦の練習になる前に何日か休みがあり、その期間を利用しました。皆資金もないので「信州ワイド周遊券」を利用して鉄道を乗り回しました。私は願ったりかなったりでしたが、他の友人は鉄道にはまったく興味がなかったので、結構苦痛だったかもしれません。宿も基本的には当時は一番安く宿泊出来た「民宿」を利用しました。でもそれぞれが特色があり、今考えれば面白かった、と思っています。

私たちはみな多摩地区、そのころは京王沿線に住んでいたのでまずは京王線で高尾駅に向かいました。
そして高尾発の中央線の普通列車に乗り込みました。最初の宿泊地は「小諸」です。ということは小淵沢で小海線に乗り換えです。

小海線は日本一の高地を走る鉄道で、中学の林間学校で清里に行ったことはありましたが、観光バスでした。その後社会人になってからもスキーや旅行でたびたび行きました。でも野辺山や小海から先に行ったことはあまりなく、特に鉄道で全線を走破したことは後にも先にもこの時だけです。
小海線1キハ52小海線2キハ52
車両はまだキハ52が運用されていました。
私は知識はあまりありませんが、以前は地方のローカル線では普通に走っていた車両だったと認識しています。小海線に乗ったこと以外、当時の記憶はあまりなく、小諸で懐古園などを見物して、駅や街からはかなり離れた民宿まで20分くらい歩いたと、記憶しています。歩いているうちに田んぼの中の道になり、「本当にこんな場所に泊まるところがあるの?」と感じたことは記憶しています。
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翌日はまた電車で長野方面に向い、篠ノ井で乗り換え、今度は松本方面に向かったと記憶しています。
まず小諸から普通列車に乗りましたが、途中上田駅で写真のように上田交通(現上田電鉄)の車両が留置されていました。今は懐かしい車両ですが、当時はまだ旧型車が普通に運用されていました。
上田交通1978年1上田駅

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松本から乗り換え大糸線に乗車しました。
松本は中学の友人に両親が松本の農家出身の人がいて、中学2年の時にわざわざ大阪から松本まで、友人の両方の実家に泊まりに行ったことがありました。空気がよく、水がきれいで、そして眺めもいいという印象でした。
大糸線旧型国電1信濃大町駅大糸線旧型国電2信濃大町駅
そして大糸線は当時は飯田線、身延線と並ぶ戦前製の旧型国電の三大牙城でした。
一部の鉄道の本にはこの3線区で運用されている車両の解説入りの表が載っていたくらいです。
大糸線は旧型国電はすべて水色の塗装になっていました。また中央東線を中心に東京などから優等列車も乗り入れていました。もちろんこれらは当時では新しい車両が多く、そのギャップも楽しめました。
また大糸線内の普通列車にもこれらの優等列車に使用した車両の合間運用で、165系などの車両が使用されていたようです。写真は信濃大町駅で撮影した旧型国電です。
大糸線旧型国電3信濃大町駅

また165系は翌朝に宿泊した木崎湖に近い、信濃木崎駅で撮影した急行列車です。
その後この列車が信濃木崎に停車してこの列車に乗車したのか、この列車は信濃木崎は通過で、この次の普通列車に乗車したか、記憶が判然としていません。いずれかで松本に戻り、今度は木曽方面に向かいました。
大糸線165系1信濃木崎駅
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木曽地方は当時は「木曽十一宿」という触れ込みで「妻籠宿や馬籠宿」を中心に若い女性などに人気があり、かなりの注目スポットでした。中央西線沿いの深い木曽川の谷沿いの中山道に昔のままの佇まいの宿場がたくさんありました。前述の「妻籠」や「馬籠」の他にも、保存度と規模では群を抜いていた「奈良井宿」があり、また上松町には木曽谷随一の景勝地として「寝覚ノ床」という奇勝もありました。(もちろん今でもそのままありますが・・・)

夜の宿は、木曽十一宿の一つ「須原」の旅籠だった古民家をそのまま利用した「すはら」という民宿を予約してありました。途中の電車は忘れましたが、午後にはこの地域の観光の目玉である「妻籠」や「馬籠」に到着しました。そして夕刻には写真のように「妻籠宿」の最寄駅である南木曽駅に着きました。

当時中央西線は名古屋から中津川までは一部は新性能車の快速も走るような通勤線区になっていましたが、中津川ー塩尻間はまったくローカル線で、普通列車は2時間に1本くらいしかなく、逆に当時は最新だった振り子型車両の「特急しなの」や「急行きそ」など優等列車の本数のほうが多いくらいでした。多分今も同じ状況だと思います。ただ当時は前述のように観光地として注目されていたので、観光地の最寄りの南木曽駅には一部の「特急しなの」が停車していました。今もその流れは続いている思いますが、木曽谷の観光は当時より今の方が地味になった印象です。

個人的にはその後も大学時代の民話の取材やツアー旅行でこの近辺を訪れたことがありますが、日本では屈指の昔の風景が残された街並みを楽しめます。個人的には不思議です。
中央本線旧型国電80系2南木曽駅中央本線旧型国電80系1南木曽駅
写真は当時中津川ー塩尻間で普通列車に運用されていた80系です。いわゆる元祖の「湘南電車」の車両でもあり、日本の鉄道史に残るような車両です。このころはまだ主要線区でもローカル区間を中心に80系電車が全国で走っていました。中央西線も例外ではなく、この区間を走る80系は「神領電車区」の所属の車両でした。
中央本線急行きそ号旧型客車1南木曽駅
それからさらにちょうど偶然に南木曽駅に急行きそ号が来ました。通常は気道車や電車ですが、唯一客車列車の運用が残っていて、ちょうどその列車でした。当時中央西線の客車急行列車は昼行ではこの列車と季節急行の「ちくま1号」だけでした。たまたま中学2年の時に友人の松本の実家に行って大阪に帰る列車で「ちくま1号」に乗車しましたが、自分の予想に反して冷房がガンガン効いている12系客車だったので、中央西線の昼行の優等列車では唯一の旧型客車列車に出会えることができました。

その晩は前述のように「民宿すはら」に宿泊しました。
今まで泊まった宿とは少し違い観光地らしい気分を味わえました。
夕食は居間のようなところで宿泊者が全員一緒でした。数百年は経っていそうな古い宿場の建物で、なんと中央には囲炉裏がありました。しばしタイムスリップしたようでした。
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そしてここからもあまり詳しく思い出せませんが翌日は塩尻経由で中央線に戻り、今度は当時日本最大の戦前の旧型国電の牙城だった飯田線沿線に向かいました。その晩の宿泊は伊那市の民宿で「小黒川温泉」という一軒宿でした。場所がわからないので伊那市駅から3人でタクシーに乗りました。景色はみるみるうちに田んぼばかりになりました。

伊那谷は木曽谷よりはるかに広く、南アルプスと中央アルプスを両側に望むような地域でした。
線名になった飯田市、他にも駒ヶ根市、伊那市などそこそこの規模の大きな町もありました。そして何よりも松本近辺の安曇野と同様に、高い山々を至近距離で見ることができる田園地帯が広がり素晴らしい景色でした。実は高校の同級生が一人駒ヶ根出身で、親戚もたくさん駒ヶ根にあったので、その2年後に泊まりに行ったことがあります。

さて問題の「小黒川温泉」は温泉宿というような旅館のようなところではなく、大きめの普通の建物でした。部屋はビニールのござ敷きで、すごく広い部屋でした。部屋には漫画本が散乱していて、読み放題でした。さらに忘れられないのは食事です。宿に人がいきなりカセットコンロを持ってきました。そして大きな皿に山盛りの「鶏肉」を持ってきました。そして「ご飯」を持ってきました。「ご飯」もすごい量で、宿の人は「肉もご飯も食べ放題だよ」と言っていました。当時は物価が安かったとはいえ、これで宿泊費が2食付で2700円だったのはおぼえています。

得したような、そうでないような、不思議な気分で、今まで経験しことのないような宿泊を経験できました。ある意味楽しく、しかもいい経験ができました。

でも民宿名にもある温泉には入ったのかどうかもおぼえていません。
そのような温泉らしい設備はなかったように思います。

飯田線旧型国電3伊那本郷駅
そして翌日は飯田線乗車デーのような一日でした。
写真のように途中の駅で交換を繰り返しました。
そして唯一の観光名所である「天竜峡見物」をしました。ガイドブックに従って駅名は忘れましたが手前の違う駅で下車して「天竜峡駅」までの間「天竜下り」の船に乗船しました。

当時は知識も情報もなく、「天竜下り」は「怖くて危険な船」という印象で考えていましたが、実際に乗ってみるとそんなに恐怖は感じませんでした。他の観光客も皆平気な顔して、むしろ楽しそうに乗船していました。
飯田線旧型国電4天竜峡駅
飯田線旧型国電1
飯田線旧型国電2天竜峡駅飯田線旧型国電5
そして下船後はまた長い飯田線の旅が始まりました。これから豊橋まで数時間乗りっぱなしです。途中までは広く景色のいい伊那谷ですが、南部は険しい山間の路線になります。そのかわり間近に渓谷や谷を望む違った意味での絶景路線になりました。というか「秘境」という表現のほうが適切かもしれません。一番下の写真はまるで旧型客車のようなニス塗りの車内の様子です。またある駅では留置線に全国の旧型国電の王者といわれていた流線形車両の元祖である「流電クモハ52」が留置されていました。戦前に製造され京阪神間で活躍した車両です。残念ながら、当時は写真を撮ったつもりでしたが、現在はすでに写真は持っていませんでした。
飯田線旧型国電6
そんな長い乗車も終り、終点の豊橋に到着しました。
すでに夕方になっていたので、そこからは新幹線で東京に帰りました。
乗車したのは「こだま号」でしたが、今までとは格段のスピードで、目が回るくらいでした。

こだま号の特急券代はかかりましたが、一貫して普通列車など周遊券で乗れる範囲の列車しか乗らず、宿泊もすべて民宿だったので、意外に旅行費は安く上がりました。

でも今は年齢もあり、こんな旅行をする気力もないですし、地方も大きく変わってしまい正直言うと当時の様子から比べると、個人的には少々魅力も薄れてしまった、と感じています。

今はもっとちがった旅行の考え方やスタイルがあるのかもしれませんね。

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劇団・ことのはboxが第18回公演「カミサマの恋」に3/1〜3/5に行います。ネット配信でも観劇ができますので、詳細は下記「ことのはBOXオフィシャルサイト」か「公演用専用サイト」をご覧ください。また現地の劇場での観劇は公演前日までに予約が可能のようです。また当日劇場で当日券も入手可能のようです。

※公演チケットやライブ配信の予約などの詳細も記載してあります。劇場公演につきましては完売の可能性もありますので、主催者に直接お問合せください。(下記サイト参照)

萬劇場(よろずげきじょう)
〒170-0004
東京都豊島区北大塚2−32−22
JR山手線・大塚駅から徒歩約4分
都電荒川線・巣鴨新田駅から徒歩約3分



・萬劇場ホームページ



・ことのはboxホームページ


・第18回公演「カミサマの恋」のページ


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さてここからは鉄道の記事です

ー多摩地区の懐かしの鉄道写真その1ー
横浜線、青梅線の旧型国電、101系や中央本線183系、165系、旧型客車などの写真

以前にこのサイトで南武線の旧型国電や当時日本最古の電気機関車ED16写真を掲載しましたが、それ以外で保存してあった写真を何点か紹介します。
※写真はすべて1977年くらいにサイト管理者本人が撮影したものをスキャンしたものです。また当方は詳細な知識がないので一部車両形式の表記が正確かどうかは不明なことをご承知おきください。

青梅線72系旧型国電
青梅線72系写真1立川駅
写真は当時はまだ立川駅が駅ビル開業(1979年?)前の古いホームに停車中の青梅線の旧型国電です。当時はすでに一部は新性能電車に置き換わっていましたが、まだまだ旧型国電は多く、多摩地区では南武線に次ぐ牙城でした。特にこの線区は拝島で五日市線と別れるため、行き先のバリュエーションが多く、切り離しや併結列車もあり、また両数も奥多摩行は4両など、様々でした。それからラッシュ時を中心に増結用に1両だけ戦前製のクモハ40形という旧型国電も存在していました。

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青梅線、中央線直通の特別快速みたけ号
青梅線101系特別快速みたけ号写真1立川駅
たまたま立川駅に停車しているところを撮影したものだと思いますが、トップシーズンの休日のみ運行という臨時ダイヤで新宿から青梅線を直通する特別快速が運行されていました。ほかにも愛称があったと思います。当時の時刻表を見れば思い出すと思いますが、忘れました。車両は101系でただの通勤型、立川から中央線に入るとまったく他の特別快速と区別もなく、さらに新宿止まりという列車でした。多分関西の人が見たら、「こんな列車にたいそうな名前をつけるな・・」と思われたと思います。写真のバックには当時の古い立川駅の様子が写っていて、以前は立川のシンボルで駅前にドンと構えて街のシンボルにもなっていた「高島屋デパート」の一部が写っています。先日再開発後の移転先の「高島屋」もデパートとしての営業を終了してしまったようで、淋しい限りですが・・。
※追記:もう1つの愛称は多分「あきがわ号」だったかもしれません。五日市線経由の武蔵五日市行だったと思います。(2月28日AM11時25分くらい)
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横浜線72系旧型国電
横浜線72系写真1八王子駅
写真八王子駅に停車中の横浜線の電車です。現在は沿線の急激な発達もあり、本数も劇的に増えて首都圏の主要な路線の一つとなった横浜線ですが、当時はまだ小机ー八王子間は単線でした。さらに小田急線との接続も国鉄・原町田駅ー小田急・新原町田駅も数百メートル離れており、それなりの時間がかかりました。ただ新性能化はある程度進んでいて、すでに103系電車の「きみどり」と「みずいろ」のマダラ編成の電車がかなり走っていました。でも当時は片倉ー相原間、淵野辺ー原町田(現町田駅)間、原町田ー長津田間、長津田ー中山間は新駅もなく、かなりの駅間距離がありました。特に八王子から橋本は国電では珍しいい、いわゆる「御殿峠」越えの区間であり、「ここって東京?」と思うような風景でした。
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中央本線特急あずさ号183系
中央本線183系特急あずさ1八王子駅
まだオリジナル塗装や長野色になる前の183系のオリジナル色の状態です。八王子駅に入線するところを撮影しました。この当時狩人が歌う「あずさ2号」が大ヒットして列車名が全国区になりました。ただその後の改正で偶数番号の号数は、上り列車のみに適用ということで新宿発のあずさ2号はなくなりました。その後前述のように塗装を何回か変更、私はそんなに詳しくないのですが長野区の189系と合同運用になり、そのご制作された車両もすでに引退して新車に置き換わるなど、寒冷地でしかも山岳区間という、かなりきびしい環境の中、かなりの本数を走らせる名門列車として君臨していると感じています。
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中央本線急行アルプス号165系
中央本線165系急行アルプス写真1八王子駅
こちらも八王子駅での撮影です。
この列車はあずさが主流になる前の中央本線沿線へのビジネス、旅行、登山客、スキー客などを一手に引き受けていた名門列車です。急行としては本数や両数も多く、いつまでかは忘れましたが編成にビュッフェを連結していたという記憶があります。またよく利用しましたが、いつも混雑していて席取りが大変だったという記憶もあります。
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中央本線急行たてしな号
中央本線旧型客車急行たてしな写真八王子駅
上の写真は臨時急行たてしな号の客車列車です。
この列車は臨時列車で中央東線の優等列車では唯一旧型客車で運行されていました。
運用上の都合だと思いますが、臨時急行たてしな号の中でも、夕方に新宿に着くこの列車だけが客車列車でした。当時は中央西線でも季節列車の「急行ちくま1号」は12系客車になっていたので、きわめてレアな列車だったと思っています。

また下の写真は115系の急行で「かいじ号」か「たてしな号」かは正直忘れました。
※2月28日PM0時50分くらいに写真も含めて追記
中央本線115系急行1八王子駅
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中央本線休日運転の臨時列車101系高尾ー相模湖間列車
中央本線101系写真1高尾駅
これは高尾駅の留置線に停車中の車両で、ハイシーズンの朝夕に登山客や観光客の多い、高尾ー相模湖間のみを101系電車が何往復かしていました。この区間は東京都ー神奈川県の県境で、小仏峠をトンネルで抜ける長い区間で約10分かかるような首都圏では珍しい山岳区間でもあります。
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京王高尾線2600系
京王高尾線2600系写真1高尾駅
高尾駅に入線する京王2600系電車です。この電車は京王線に2000系や5000系など(すでに京王からは引退)の新車が登場するまで京王線の主力車両として活躍した電車ということです。私が東京に引っ越してきたときは、すでに本線からは姿を消し、高尾線内の各駅停車のみ運用されていました。登場当時の状況はわかりませんが、私が乗った時期は新性能の「カルダン駆動車」でした。

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歌手の小桜舞子が2月16日(木)、23日(木)にFM世田谷「坂井賢太郎の昭和バンザイ」に出演します。番組はネットでリアルタイムでも聴取できます。(下記のように再放送あります)
小桜舞子 名残りの雨(アー写)2
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出演ゲスト:「小桜舞子」
MC:坂井賢太郎(西部ピアノ会長)、跡見真優
O.A曲:2月16日、2月23日ともに「名残りの雨」

・放送局:FM世田谷・・83.4MHz
・放送日:2023年2月16日(木)および2023年2月23日(木)の22:00〜22:30
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・番組名:『坂井賢太郎の昭和バンザイ』

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さてここからは鉄道の記事です

ー伊豆箱根方面の鉄道写真その1ー
伊豆急行100系と箱根登山鉄道旧型電車&185系の写真

ややこしい表題になりましたが、伊豆箱根方面の鉄道車両は1990年代以降に大きく変貌しました。

元から仕事の関係で1993年くらいから真鶴には頻繁に行っていましたが、頻繁に観光で行くようになったのは1995年以降です。また古くは153系の急行伊豆号で熱川に行ったり、新幹線乗り換えで土肥温泉に行ったことはありましたが、それくらいでした。
熱海駅185系湘南ブロック色1
写真は熱海駅で見かけた東海道線のブロック塗装が入った185系「特急踊り子号」です。以前利用した「急行伊豆」が格上げになり、「特急あまぎ」に併合され、「特急踊り子号」として一本化された、その時に多目的に開発された「185系電車」がデビューしたと記憶しています。特急の設備なのに窓が開閉する、という特色があったという記憶がありました。また当初は座席も簡易リクライニングがなかったのでは?と記憶しています。

その前身の153系「急行伊豆」も全車指定席という急行としては特殊な列車で、しかも多くは伊豆急下田・修善寺行の混成の15両の長大編成でした。当時は日本を代表する観光列車として、それなりのニーズがあったと思われます。他に当初も「準急日光」用に開発されたいわゆる「日光型」の157系が「特急あまぎ」として豪華な設備の列車が走っていた線区でもあります。

現在は観光の手法や手段が大きく変わり、列車のニーズが著しく減少して、伊豆箱根方面は小田急ロマンスカー以外は小田急ロマンスカーとタイアップした一部豪華列車が存在する他は、多くが淘汰されてしまった感があります。
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伊豆急行100系イズノスケ1伊豆急行100系イズノスケ2
伊豆急行100系イズノスケ3
伊豆急行100系イズノスケ4
写真は伊豆急行の100系です。撮影したのははっきりおぼえていませんが、伊豆急行のキャンペーン「イズノスケ」がラッピングされているので2000年くらいだと思います。その直前にも社員旅行で伊豆熱川に行き、自分の都合で単独で往復したので、往きも帰りも熱海から100系電車で伊豆熱川を往復したという記憶があります。

この100系東急系の観光路線である伊豆急行が開業したときからの車両で、国鉄区間である熱海ー伊東間にも当時から相互乗り入れをしていて、多くの列車が熱海ー伊豆急下田間の直通運転になっていました。また地方私鉄の普通列車としては国鉄の急行車両に準じた設備を誇っていました。そして当時時刻表にも記載されていましたが、ほぼすべての列車が普通列車グリーン車を連結していいたという記憶があります。

当時でいえば他の線区では名鉄や富山地鉄にはこのようなクロスシート系の車両が優等列車以外でも運用されていたようです。ところが伊豆急行の場合は、トイレも完備した完全に国鉄の急行レベルの車両を普通列車として走らせていて、きわめて特殊な線区だと感じました。しかもサロンカー(展望車)のような車両も連結していたという記憶があります。
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箱根登山鉄道モハ2形108号箱根登山鉄道モハ2形110号
写真は箱根登山鉄道の車両で108号は強羅駅、110号は箱根湯本駅に停車しているのを撮影したものです。どちらもカルダン駆動に改造されていたようですが、車内の設備は当時の風情が残り、私は現在の車両運用内容の詳細は知りませんが、箱根登山鉄道も平成10年以降に急速に車両入れ替えが進んでいるようです。もちろん社会背景や、車両の老朽化などの問題もあり、レトロ好きの私でも当然の帰結だと思っています。

次回以降もその後の車両の変遷を写真などで掲載していきたいと思っています。

※専門知識も乏しく、写真はど素人なのでご承知おきください。
※写真はすべてサイト管理者本人が撮影、所有しているものです。(撮影は1995年〜2000年くらいと思われます)

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画家・加藤恵美子がコートギャラリー国立で個展を開催中です(2月7日まで)。
また本日15時から赤羽美声堂で歌手・りんともシスターズが新曲「舞姫」のキャンペーンを行います。

詳しくは下記をご覧ください。
・画家・加藤恵美子オフィシャルサイト

・りんともシスターズのキャンペーン詳細

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さてここからは鉄道の話題です

ー上野駅の風景その1(1977〜78年くらいの写真)ー

小学生の時に初めて上野駅のいわゆる地平(列車)ホームを見ました。
当時は上野公園側はいわゆる高架ホームで国電のホーム、そのとなりに高崎線や一部の東北線など普通列車や一部上信越方面有徳列車のホームがあり、同じ高さのホームでは一番東側に常磐線快速電車のホームがありました。基本的にはこの配列は今も変わっていないと思います。

そして一段低くなった地平(列車)ホームがその向こう側に続きました。
常磐線快速のホームと一段下の13番ホームは上下重なっていて、以前も今も地下ホームのようになっています。

そしてこの13番線から、当時の20番線までのホームに東北線や常磐、奥羽線方面行きを中心とした列車が夜行、昼行を問わずひっきりなしに発着していまし。また5番線〜10番線の上信越方面も「特急とき」や「特急あさま」などの一部の特急・急行列車が発着していました。

このホームの出入りを管理していた人たちは相当な手腕だったのでは?と思うほどの過密ダイヤを管理していたのだと思います。今の新幹線同様、常磐線以外は上野ー大宮間はたった2本の線路で行き来していたのだから、大変な苦心があったのだと思います。

さて前置きはこれくらいにして、長年の間上野駅を見物しながらたまに素人ながら写真に記録していました。すべてが残っているわけではありませんが、今保存している分だけでも一つの記録として残しておきたいと思います。

まずは1回目、1977〜78年ごろに撮影した分です。
※2回とも正確な時期は忘れました・・。

絵入りヘッドマーク運用前
・特急ひばり号
仙台行の東北線の看板列車でした。ほとんどが485系(写真上)の運用だったと思いますが、唯一下りでいえば4号は583系(写真下)の運用だった記憶しています。
1976上野ひばり21976上野ひばり1

・特急やまばと号
山形行の特急列車の愛称で、今は「ひばり」とともに使用されていない愛称です。
1976上野やまばと1

・特急とき号
「特急ひばり号」とならぶ上越線経由新潟行の上信越方面の看板列車でした。実はこの見物や撮影は当時「とき号」のみで運用されていた旧こだま型の流れの車両である181系を撮影するのが目的でしたが、撮影に失敗してしまいました。そこまで執着していなかったのか?そのまま帰ってきたようです。
1976上野とき1

・特急あさま号

まだ「あさま色」になる前で、ある意味地味な列車でした。
1976上野あさま1

・特急いなほ号

今では昼行では考えられないような長距離運転をしていた特急で上越〜羽越〜奥羽線周りで、一部は青森行でした。
1976上野いなほ1

・特急ゆうづる号

常磐線の王者ともいえる、人気列車でした。当時は青森周辺だけでなく、東京から青函連絡船経由で北海道に行く人たちの需要をまとめて受け止めて、私の記憶では一番多い時は1日7往復という記憶です。私も以前列車で北海道に行く時にチケットが取れず、東北線経由でわずか1往復しかない「はくつる」で青森に行ったのを簿得ています。
1976上野ゆうづる1

・特急ひたち号

1976上野ひたち1

・急行八甲田号
当時はまだ旧型客車の寝台・普通車などの混成編成でした。
1976上野八甲田21976上野八甲田1

・急行いわて号
今は懐かしい455系の交直両用の急行色の車両で、当時は東北、北陸、九州は普通の色でした。
1976上野いわて1

・急行ざおう・いいで号
急行ざおうの唯一の気道車列車で磐越西線経由で新潟行の「急行いいで」との併結でした。
1976上野さおういいで1

・高崎行客車普通列車
高崎線に残された数少ない客車普通列車で、昼に走っていたのはたしかこの列車だけだったと思います。
1976上野高崎行客車普通列車1

絵入りヘッドマーク運用後(1978年10月以後)
・特急ひばり号
1976上野ひばり3

・特急やまばと号
1976上野やまばと2

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2月2日(木)から2月7日(火)に画家・加藤恵美子が個展を国立市の「コートギャラリー国立」にて開催いたします。詳細は下記概要をご覧ください。
画家・加藤恵美子・夜桜1
夜桜 

「加藤恵美子展」開催概要

場所:コートギャラリー国立

ホームページ
〒186-0004東京都国立市中1-8-32
Google map
TEL:
042-573-8282
会期:2023年2月2日(木)〜2月7日(火)
11:00〜18:00  最終日16:00まで
http://www.courtgallery-k.com/access.html
電車
JR国立駅南口より線路に沿って立川方面に徒歩2分。
駐車場など車の方へ
お車でお越しの方は、ギャラリー前有料駐車場を御利用下さい。
ギャラリー前道路は一方通行の為、富士見通りより迂回してください。
入場無料
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ここからは鉄道の話題です

ー1976年初旬の東京駅など鉄道写真ー

埼玉県の鉄道のない町から東京に引っ越してきて最初に鉄道を見物に行ったのが表題の1976年1月に行った東京駅です。

ちょうど中学の友人と一緒に遊びに行きました。彼はまったくそのような趣味はありませんでしたが、好奇心もあり一緒に行ったという記憶があります。埼玉にいる時はそのような機会もなく、家でたまに買う時刻表などを読んで楽しんでいました。

でも埼玉時代も2回ほど大宮駅に同じような趣味の人と列車を見に行ったりしました。そして一度は彼も含めた数人で上野駅まで「冒険心」もあり遊びに行ったことはありました。その時は帰りにちょうど「福島行」の客車普通列車に乗ることができました。でもこの3回以外はそのような機会はありませんでした。

また自分の家の実家である大阪に行くことは夏冬は毎年繰り返していましたが、東京駅から新幹線で行くので在来線の見物をするような時間もなく、東京に引っ越すことが分かった時点で、そんな機会があれば、と思っていましたが、やっと実現したというのが本当のところです。

京王線と中央線を乗り継ぎ東京駅に行きました。

なぜ行ったのかというと以下のような理由です。当時早稲田や慶応の鉄道研究会が編集した「鉄道のわかる本」「鉄道雑学事典」という本がありました。それらの本を買い読んでいたら、どちらに掲載されていたかはおぼえていませんが、次のようなことが書いてありました。「東京駅でいまだに(当時)、旧型国電で「湘南電車」といわれた80系電車を見ることができる」という記事です。そしてそれに魅かれたからです。
1976東京駅1・80系電車
入線する80系電車「沼津行」
どうも当時はまだ創価学会の臨時列車が80系電車で運行されていたようで、信者を富士宮まで往き来した時の空いた筋での運用だったようです。他にも運用はありましたが、一般的な時間に定期運用されている数少ない80系電車のようでした。しかも10両以上の長大編成で、すでに近代化の始まっていた東京駅では異彩を放っていたようです。当時時刻表でもそれがすぐわかりました。すでに東海道線の普通列車は113系や急行の間合い運用の153系はすべてグリーン車を連結していましたが、80系電車だけグリーン車のマークがありませんでした。

列車に乗り込むと、内装は思いっ切り旧型国電で、一部の車両はニス塗りの木の内装でした。
一緒に同行した友人はちょうど親の実家が青森だそうで、「俺の田舎に行くとこんな列車ばかりだよ」と言っていたのが印象的でした。それでも列車は相当なスピードで大都会の東京ー横浜間を疾走して、結局大船まで乗車しました。
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さて時間が逆になりますが、80系列車が東京を出発するのはたしか午前11時前後で、それまでは東京駅に到着するブルートレインなどの夜行列車や、伊豆方面に行く特急や急行を見物していました。

まずは登場当時は「日光型」と呼ばれた157系で運用されていた「特急あまぎ」です。この時はすでに新車両の183系に置き換わっていましたが、そのご「急行伊豆」と統合してさらに新車両の185系に置き換えられ「特急踊り子」としてスタートを切りました。183系も「あまぎ」という愛称の列車も今は現役の列車にはありません。
1976東京駅4・特急あまぎ
「特急あまぎ」
さらに形式は正確な知識がないのでわかりませんが、多分167系だと思いますが、その車両も見物できました。いわゆる「修学旅行用電車」として「ひので号」や「こまどり号」などの愛称で親しまれた「修学旅行用電車」です。

以前の時刻表では欄外に各列車の時刻表まで掲載されていました。しかし新幹線の博多開通以降だと思いますが、修学旅行は新幹線に取って代わられたため少なくとも東海道線や山陽線を経由する列車は不要になってしまったようです。私が小さいころは「交通図鑑」にも代表的な列車として「ひので号」が載っていました。
1976東京駅7・167系電車
「急行おくいず」
そこで余剰車両は、伊豆方面の臨時急行列車に使用されるようになったようで、季節列車や臨時列車の「急行おくいず号」にも使用されていました。その車両が偶然東京駅に止まっていました。当時だけという、きわめて珍しい車両運用であり、今考えれば、とても希少な列車だったのかもしれません。

当時のままであれば車内は普通の急行列車とほぼ同じ仕様ではありますが、修学旅行用ということで各座席のボックスに荷物棚などがあったようです。写真の「当日停車していた車両」の内装は残念ながらまったく記憶がありません。

あと東京駅に到着するブルートレインも見物できました。当時これらの列車は鉄道ファンにも大人気で略して「ブルトレ」などといわれていましたが新幹線の博多開通後も寝台券を取るのが大変で「プラチナチケット」と呼ばれていました。特に九州ではありませんが急行から格上げになった「特急出雲」は人気があったと記憶しています。

1976東京駅8・特急あさかぜ11976東京駅3・特急あさかぜ2
「特急あさかぜ」
1976東京駅2・特急富士
「特急富士」
特急はやぶさ1東京駅1976
「特急はやぶさ」
今回は比較的遅く東京に到着する列車「特急あさかぜ」と「特急富士」、「特急はやぶさ」を見物しました。「特急あさかぜ」はまだ20系客車でした。
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1976東京駅5・急行銀河11976東京駅6・急行銀河2.
「急行銀河」
さらに当時はヘッドマークもなく鉄道ファンはほとんど見向きもしませんでしたが、東京ー大阪間の「急行銀河」も見物できました。考えてみたら私の親戚はほとんど関西と北陸なので銀河号は平成以降は家の用事で会社帰りに何度も乗車しましたが、当時は見物すら初めてでした。「急行銀河」もまだ20系客車でしたが、すでに10系ではなくなっていたのでグレードは当時の急行としては高かったのかもしれません。ただヘッドマークもなく、写真のように客車の最後尾も列車名の表示はありませんでした。

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また話は飛びますが、80系電車で大船から横須賀線に乗り換え、鎌倉経由で江ノ島へ出ました。
周辺は観光地でもあり、そこでの記録は鉄道と直接関係ないので端折ります。

1976・片瀬江ノ島駅特急えのしま号
小田急ロマンスカー「えのしま号」
そして最終的に写真のように小田急ロマンスカーの「えのしま号」に乗車して、新宿まで戻ってきました。

ロマンスカーも今となっては貴重な車両でしたが、当時はこの車両は「えのしま号」「さがみ号」などでは主力車両で、たまたま写真は残っていましたが、この車両に乗るのが目的ではなく、さすが少し疲れたのでロマンスカーで帰ろう、ということになり乗っただけ、という程度でした。

本格的に電車の写真を初めて撮り、それなりに満足でしたが、この行脚に付き合ってくれた人は基本的に興味があるわけではなかったので、ある意味同行してくれて、今では感謝しています。

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FM世田谷番組「坂井賢太郎の昭和バンザイ」の1月26日、2月2日の放送は「永井みゆき」が新曲「秘蛍(ひめぼたる)」のPRも兼ねてリモート出演します。放送は下記通常放送の他にリアルタイムのみインターネットラジオ「リスラジ」でお聴きになれます。ぜひともご拝聴ください。
・放送局:FM世田谷・・83.4MHz
・放送日:2023年1月26日(木)および2023年2月2日(木)の22:00〜22:30
・再放送:2023年1月27日(金)および2023年2月3日(金)の22:30〜23:00

※通常のラジオ聴取可能エリア:東京都23区西部(世田谷区、杉並区、中野区、渋谷区、練馬区、新宿区など)および多磨東部地区(武蔵野市、三鷹市、調布市、狛江市など)
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「秘蛍」You tube動画(テイチクエンタテインメントから承諾を得ています)

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さてここからは「鉄道サイト」の記事です。

上野発客車普通列車「一ノ関行123列車」
(1978年10月1日)

※撮影・所有はサイト管理者でスキャンして掲載

一関行客車普通列車5
(行き先のサボ)
国鉄は1978年10月2日に大規模なダイヤ改正を行いました。当時私は高校1年で野球部に入っていたので、元来の趣味だった鉄道関係からはかなり離れた状態でした。高校入学後は自宅近くの南武線の72系電車引退時は分倍河原駅に見物に行きましたが、鉄道を第一目標に見物するようなことはなくなりました。

ただこの年の夏休みには高校の友人(鉄道ファンではありませんが・・)と信州を列車でまわりました。小諸や大町、木曽、伊那などを巡りましたが、途中で小海線の旧型気道車、大糸線や飯田線の旧型国電列車、中央西線の80系電車などに乗車することができました。というような旅行に行くことはできました。

でもこの改正で上野発の長距離客車普通列車としてならしていた「一ノ関行123列車」がついに廃止になるということがわかり、幸い日曜日だったので久しぶりに上野駅に駆けつけました。
一関行客車普通列車4
(牽引するEF58、ヘッドマークはファンの手製)
この列車の存在はかなり以前から知っていました。私は昭和49年までは埼玉県に住んでいました。ちょうど姉が通っていた公立の中学の林間学校は那須高原だったのですが、大宮からこの「一ノ関行」に乗車して列車で現地近くの駅(たしか黒磯だったと思います・・)まで行くという予定表だったのをおぼえています。

この53年の改正の目玉は紀勢本線・和歌山ー新宮間の電化でした。
特急くろしおがついに電車化され気道車区間の新宮ー名古屋間は廃止されました。「特急くろしお」には当時は先進的な車両で中央西線「しなの」で活躍が始まっていた381系「振り子型電車」が投入されました。カーブでも通常よりも減速しなくてすむ電車だったと記憶しています。また武蔵野線の新松戸ー西船橋間が開通しました。他には表題の上野発客車普通列車が大幅に整理されました。最長距離の表題の「一ノ関行」以外に10時52分発の高崎行、また夕方に出発する福島行、また常磐線の全線を走破する仙台行がこの改正で廃止になり、上野発の客車普通列車は「風前の灯」になりました。

この5年後に東北・上越新幹線が大宮発で暫定開業して、特急や急行列車の多くが整理されました。
それに先立ったような感じでこの改正で、旧型客車の長大編成で長距離を走るような列車が廃止になったんだ、と後になって感じました。

すでに時代は戦後の面影を残すようなレトロなものが淘汰され、その後に起こる近代化が進む「平成」の文化に進もうとしていたのかもしれません。

客車普通列車は基本的に扉は車両の両側の2ヶ所のデッキにありますが、走行中も扉はあいたままです。そんな危険な列車はきょう日はありえませんが、当時は地方にいけば多くの列車がそうだったと思います。

さて、下記の写真が123列車「一ノ関行」の最終日の様子です。私は上野駅の13番ホームで撮影を始め、大宮まで旧型客車に乗車して、大宮で降車してまた撮影をしました。もちろん素人のうえ、腕も悪く、さらに安いカメラのハーフサイズだったので、とても見れたものではない写真ばかりですが、文化資料としては若干意味があるかもしれないと思っています。

一関行客車普通列車3一関行客車普通列車2
一関行客車普通列車10
一関行客車普通列車8
一関行客車普通列車6
一関行客車普通列車11
一関行客車普通列車7
一関行客車普通列車9
一関行客車普通列車1

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そこ此処に記載していますが、私は生れは大阪、育ちは埼玉です。東京に転居してきたのは昭和49年夏で12歳くらいでした。

・旧型国電(72系電車)
このころは23区内では特殊な運用以外では旧型国電はほとんど見ることはできませんでした。
でも多摩地区や神奈川県の一部では表題の旧型国電最大の牙城である南武線をはじめ、青梅線、五日市線、横浜線、鶴見線、大手私鉄の支線などでは都心部や幹線から払い下げになった車両を中心に旧型電車が主力で運用されていたようです。

特に南武線は、私にとっては生活も含めてなくてはならないくらいの路線でした。分倍河原、矢川など家の比較的近所の駅から頻繁に利用していました。当時は登戸ー川崎間の電車も多く、登戸ー立川間は電車の本数も日中は約20分間隔くらいと少なかったのですが、個人的には重要な路線でした。公私に渡る用事で頻繁に行く立川、小田急に連絡する時に経由する登戸へは必ず南武線経由でした。今もそうかもしれませんが、旧型国電の72系電車は川崎市の中原電車区というところが本拠地のようでした。詳細は忘れましたが70両を超えるような旧型国電が配属されていた、と記憶しています。

ただ冷房もなく、当時は正直閉口していた部分もありました。しかし今となってはどんどん新車に置き換わり、あっという間に主力だった72系電車も全国で淘汰されてしまいました。というか、自分が年齢を重ねるにつれて、時の流れが早く感じるようになったのかもしれませんが・・。
いずれにしても、廃車になってから「ああ、もっと写真を撮っておくんだった」などと思ったものです。おそらく当時は通勤通学用に大都市で使用された全国でも最大級の両数があるような一般的な車両だったので急に淘汰されるとは夢にも思っていなかった、というのが当時の正直な感想です。

下の写真はすべて中学〜高校1年のころに時間の余裕のある時に、駅で撮影したものをスキャンしたものです。
※高校は野球部に入り、それどころではなくなったのでおもに中学3年の時に撮影したものです。

・ED16電気機関車
また写真でもありますが、南武線は、青梅線とともに当時はセメントの原料である石灰岩の輸送も大きな役割の一つでした。奥多摩は石灰岩の産地であり、そこから青梅線、南武線を経由して川崎など京浜工業地帯方面に輸送していたものと思われます。それは京浜工業地帯で使用されたのか、川崎など大きな工業用の港まで運んだのか、又は東海道線など鉄道の幹線で全国に運ばれたのかは、まったくわかりません。当時は10分〜20分間隔の電車以外に、石灰岩を積み込んだ貨物列車が頻繁に運行されていたようです。そしてこの貨物列車を牽引していたのが、山などでもまったく問題にしないパワーと機動性を持つといわれた最古参の電気機関車の一つであるED16でした。この電気機関車はかつては山岳区間など全国で活躍していたみたいですが、この時代以降はほぼこの青梅線、南武線の石灰岩輸送の専用電機として活躍していました。

この電気機関車は立川機関区という、ちょうど南武線の西国立駅の横にある小さな車庫を本拠地にしていました。
見た目は他の旧型電気機関車とあまり変わりませんが、なんと戦前製だったそうです。

矢川駅の72系電車(1977年ころ?)
南武線・矢川駅1b
南武線・矢川駅3b
南武線・矢川駅4

駅名不明72系電車(西国立駅?1977年?正直わかりません・・)
南武線・登戸駅8

登戸駅の72系電車(1978年?)
南武線・登戸駅9
南武線・登戸駅10
南武線・登戸駅12

川崎駅の72系電車(1977年ころ?)
南武線・川崎駅11

登戸駅の当時は川崎ー登戸間で運行されていた101系快速電車(1978年)
南武線101系快速・登戸駅13

ED16電気機関車(立川機関区・1977年?)
南武線ED16電気機関車・立川機関区5南武線ED16電気機関車・立川機関区6
南武線ED16電気機関車・立川機関区7

ED16電気機関車(分倍河原駅・1978年?)
南武線・ED16分倍河原15

南武線72系のさよなら運転の電車(1978年・分倍河原駅)
南武線72系電車さよなら運転2・分倍河原駅(1978年)16
南武線72系電車さよなら運転・分倍河原駅(1978年)14

中にはお見苦しい写真があることをお詫びいたします。

また写真は前述のようにすべてサイト管理者が撮影したものをスキャンして掲載しています。無断での転用、転載を固く禁じます。

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タイトルの表現が若干オーバー気味だったので適切な文言に修正しました。(修正:10月20日13時10分)
急行能登号489系電車画像1

上野駅に停車中の急行能登号(2008年に本人が撮影)
両親とも金沢の家系
私の家系は複雑で説明すると長くなるので端折りますが、どちらも本家は金沢で、同じ高校の出身です。でも父は生まれと少年時代は中国でした。しかも日本への引き揚げ以降は父以外の家族はほぼ大阪に住んでいました。今も親戚は大阪と金沢に分かれています。また私個人も実際に金沢には住んだことはありませんが、本籍地は結婚まで金沢でした。そして事あるごとに身内や親戚の慶弔ごとや法事など諸々でコロナ前までは頻繁に金沢に行っていました。

でもなぜか中学までは金沢に行った時はありませんでした。それはとても不便だったからという理由が大きかったと思います。実際金沢の人は都会に就職や進学する人の多くは関西方面です。私の父も就職は大阪でした。就職して数年後に東京に転勤してきたのだそうです。そんな事情も関係あるのかもしれません。

知人などは「実家や墓関係が金沢のような観光地なのでうらやましいよね」などとよく言われました。でも「上越新幹線」の開通や、さらに越後湯沢〜直江津間をショートカットする「ほくほく線」が開通するまでは本数も少なく、時間もかかりました。優等列車網もあまり整備されていませんでした。要は金沢に行くのは結構大変でした。

当時の東京ー北陸方面の列車事情
実際に行かなくても、子供のころから時刻表などでよく調べていましたが、最初に見た当時は昼行の直通は上越線経由(長岡経由)の「特急はくたか」くらいしかなかったと記憶しています。もしかしたら客車急行の白山というのがあったかもしれません。たしか「はくたか」は上野を午後に発車、金沢には夜10過ぎに到着というダイヤだったと思います。つまり東京の人が金沢に行くというような前提ではなかった、という感じです。

その後「特急白山号」(信越線経由)が新設され、「特急あさま」と同じ系統になったのか、一時は「あさま」と同じグループでL(エル)特急になっていたと思います。そして何年かするとL特急効果か?「白山号」は増発され一日2便になったように記憶しています。でもその程度でチケットを取るのも大変でした。

また夜行では上越線経由の「急行北陸1・2号(1号は福井行)」と信越線経由(長野経由)の急行越前(福井行)というのが走っていたと思います。寝台列車(ほぼ全車指定でほぼ全部が寝台車というグレードが高い列車)は「北陸2号」だけで、あとは申し訳程度に寝台車やグリーン車、普通車指定席を連結して編成の多くは普通車自由席車両の列車だったように記憶しています。もちろん寝台列車の「北陸2号」も含め旧型客車の編成でした。(ただ寝台車は当時としては旧型では新しい10系だったと思います)

金沢に最初に行ったのは中学卒業の時です。

中学の友達と金がないので普通列車で、高尾〜松本〜糸魚川〜富山(翌日)〜金沢というコースでした。松本までは都会の電車でしたが、あとは旧型国電や、古ぼけたディーゼルカー、ニス塗りの旧型客車の
連続でした。金沢の親戚の家や駅の待合室、ビジネスホテルなどを転々としていましたが、しまいには福井駅の待合室に深夜までいたら、駅前の交番のおまわりさんに補導されてしまいました。しょうがないので夜中に出る「急行立山号」に乗り京都まで行き、やっとそこで別の友人と会いました。

そしてやっと本題の夜行列車の話になります。

最初にこの夜行列車に乗車したのは昭和54年の夏でした。

金沢〜上野間の「急行能登号」(北陸が特急格上げのため改名)だったと思います。当時はまだ寝台車、グリーン車、普通車指定席・自由席の混成の編成だった旧型客車の列車でした。私が乗ったのはグリーン車で車体には旧型客車の窓の下あたりにグリーンのラインが入っていました。また車内はシックな造りで座席は赤いモケット貼りで結構ゴージャスな感じでした。その時は大阪から急な事情で特急雷鳥で金沢に行き、そしてちょうどいい東京行きもなくこの列車があったので乗車したという感じでした。なぜ寝台車に乗らなかったか?というと、当時のB寝台の幅は52センチで、3段式の上段などは寝返りも打てないような幅だったのを時刻表等で知っていたからです。夜行列車も事実上初めてだったので、ある意味興味津々でした。

グリーン車のリクライニングは意外に深く倒れ、結局ぐっすり寝込んでしまい、目が覚めるとほぼ東京の近くでした。

2度目に乗車したのは昭和60年の暮れです。

友人と大学を卒業する前(昭和60年)にたしか「急行能登号」か「特急北陸号」かどちらかに乗車しました。どちらだったかは正直おぼえていません。寝台車はブルートレインでした。当時は多くの寝台車が14系という当時は2段式のB寝台で、ベッドの幅が70センチになった新型車両でした。ということでかなり快適な夜行になりました。

次に乗車したのは従兄の結婚式の時の平成3年のゴールデンウィークです。

ちょうど競馬の当時のダービートライアルのNHK杯の週でイブキマイカグラが勝ったのをおぼえていました。

往きは「特急北陸号」で、帰りチケットが取れず以前同様に急行能登号でした。
すでに前回の流れで車両のことはわかっていたので、混む時期なので迷わず事前にB寝台のチケットを取りました。当時もまだ昼行の便は不便で、「特急はくたか」(上越線)、「特急白山」(信越線)2本か、上越新幹線長岡乗換、東海道新幹線で名古屋か米原乗換くらいしか便がなく、夜行で往復しました。

当時往きの「北陸号」の個室は珍しく、B個室でも結構豪華な設備だと思いました。また車掌さんから配られた「カードキー」など?を長らく持っていました。(今はありません・・)

ただ帰りは激混みで、明け方に寝台車でトイレに行くとデッキ越しに普通車のデッキが見えたのですが、人がデッキで複数立っているくらいでした。立ったまま夜行列車に乗っていたのでしょうか

そして平成6年に結婚して、その報告と墓参りに行った時も片道は夜行列車を利用したはずです。
しかしその時の記憶はあまりなく、多分片道は「急行能登号」の寝台で行ったような気がします。

ここまでは数年に一度程度でしたが、平成9年から状況が一変します。

というのも、平成9年、11年と続けざまに祖父母が他界しました。葬式は大阪でしたが、墓は金沢なので納骨、一周忌、三回忌がそれぞれ連続して金沢で行われました。

でもその時はすでにほくほく線が開通していて、昔上野発だった愛称の「はくたか号」がそのまま上越新幹線・越後湯沢〜金沢間の特急になっていました。しかも1〜2時間ごとに走っていたので、スピードだけでなく、便数も増え、昼間は大変便利になりました。個人的にもすでに平成元年に実父が病気の関係で体が不自由だったので、家族で移動するときはすべて「新幹線〜はくたか号」という流れになりました。

ただ一人で金沢に行く時は仕事が終わってから乗れるので、ふたたび頻繁に夜行に乗るようになりました。

その後は前述の法事の他に、金沢に住んでいた父の弟が病気になったり、そして亡くなった以降の法事、また子供のように可愛がってくれた祖母の弟の夫婦が亡くなるなど、回数を勘定できないくらい金沢に行きました。その時も一人で移動するときはことごとく夜行列車を利用しました。その時に大変お世話になったのが「北陸往復速達きっぷ」という割引きっぷです。

「新幹線〜はくたか」、もしくは「北陸号」のB寝台かB個室のどちらかで金沢方面を割り引きで往復できるきっぷでした。

父がいる時は往復昼行で、しかも父が車椅子だったのでグリーン車用でした。また一人の時はたいてい往きは「北陸のB個室」、帰りは「はくたか号〜新幹線」でした。

さらに父も2013年に他界してしまい、また金沢に行く機会が増えました。

いずれにしても北陸の用事はなぜか冬ばかりで、途中の親不知付近と、これは乗車区間ではありませんが金沢〜福井間の手取川橋梁付近が、しょっちゅう強風で大幅に遅れます。ひどい時は、これは帰りでしたが、北陸号に乗っていたら2時間くらい遅れてしまい、もう6時くらいなのにまだ高崎の手前でした。するとアナウンスで、上越新幹線に無料で乗り換えができます、と流れました。

面倒くさいのでそのまま乗っていると、車掌が個室にやってきて「早く用意して、高崎で乗り換えてください。もうあなただけですよ」といわれました。聞くとこの先通勤区間なので、仮に私が降りないで運行を続けると何時に上野に着くかわからないということでした。私が降りれば高崎で運行を打ち切ることができる、ということでした。

そこまで言われたら、降りるしかなくなり、混雑した2階建ての新幹線に乗り換えました。そうしたら朝なので新幹線でトイレに行きたくなりました。通勤客も含め皆同じ様で、トイレはどこも行列状態でした。トイレにやっといけてほっ、としたら東京という感じでした。

489系電車の急行能登号のこと
あと時計が若干前後しますが平成13年の冬には、久しぶりにやはり会社の友人と一緒に「急行能登」に乗りました。

その時は「能登号」はすでに寝台車はなくなり、車両も489系電車になっていました。上野から糸魚川まで乗車したのですが、上野発の時間が手ごろだったのか、通勤帰りの酔っ払いが大量に乗っていて、私たちはグリーン車に乗車したのですが、グリーン車も通路まで酔っ払いでいっぱいでした。そして中には空いた席に座ってしまい、寝込んでしまう人がいました。

そしてやっと空いて、夜中にトイレに行こうとしたら、ちょうど上越国境付近あたりのようで、古びた電車のデッキはすきま風がびゅんびゅん入り込み、デッキや車両のつなぎ目には少し雪が積もっていました。

また乗車ではありませんが、仕事でいわきから帰り上野に着くと必ず「急行能登号」が上野駅のホームに止まっていました。

すでにボンネットの489系でした。当時はすでに能登号にはあまり乗らなくなっていたので、ホームで写真を撮っておきました。冒頭の写真がそれです。

総括
今はすべて夜行も在来線特急としての「はくたか号」も廃止され、北陸新幹線が頻繁に北陸と東京を往復しています。2〜3年後には敦賀まで延伸するようです。となると今まで共通していた当たり前だった「金沢始発」ではない列車が多くなる可能性があり、これはあまり経験がないので、不思議な気持ちになります。

以前は客車列車天国だった北陸線も、その後は475系など国鉄型電車の天国になりましたが、今は金沢以東は第3セクターになったばかりではなく、泊〜直江津間は電車も走っていません。
様変わりしてしまい、さみしい限りですが、これが時代の流れなのかもと思います。

※上記記事は2021年10月に当運営者が別サイトに掲載した記事を一部改修して移設して掲載したものです。

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現在はすでに昭和30年代にできた鉄道車両もあまりないという状況になっています。
ところがそれ以前にできたSLはなぜか一部区間で大事に運用されています。
これは走行距離による老朽化などもありますが、鉄道車両も商業ベースにのるかどうか、という問題も介在しているのでは?と感じています。

これに類した話は鉄道車両だけでなく色々な分野で存在しているはずです。

このように希少価値が出てくるものがいずれ注目されるのでは?と思っていますが、その時にはさらに希少なものになっているはずです。先読みが可能なら、専門家でないので知識はありませんが、現在保管されている車両を動態保存するなど、今出来ることを始めればいいのにな〜、などと無責任ですが感じています。(実際に保管されているかどうか、動態保存ができるか等詳細はわかりませんが・・)

まず第1回はあの横須賀線の輸送に大活躍した70系電車です。

この車両は当時の国鉄の旧型国電(吊り掛け駆動車)では最後の時期に登場した車両です。現在ではいわゆる「旧型国電」とい言う分類の車両です。現在は路面電車以外では「吊り掛け駆動車」は定期運用では存在していないはずです。「吊り掛け駆動車」というのは、発車するときに「ブ〜〜」というような金属音を伴う駆動方式、と言い換えた方がわかりやすいと思います。詳細な仕組みはわかりませんので、悪しからず・・。

詳しい人は多分承知と思いますが、70系電車は昭和30年代〜40年代前半にかけて横須賀線で活躍した車両です。当時東海道線などを走っていた中長距離仕様の80系車両の通勤型版です。そして色も80系の緑とオレンジではなく、青とアイボリーのツートンでした。

初期の80系車両以外の共通点は前面の車両のデザインでした。いわゆる「流線形」だったことです。前面が2つ窓で、塗装が真ん中で桃のように割れていました。そういえばたしかユーミンのアルバムにも「流線形80」というのがありました。そしてこの流線形のスタイルは一時全国の私鉄の車両など多数に、受け継がれました。

そして70系も80系も共通して言えるのは、旧性能でありながら、派手にカラーリングされた最初の電車だったのでは?と思っています。

私が初めて70系電車に乗ったのは多分昭和40年前後だと思います。

当時はよくあった話ですが、私の母の姉は米軍の人と結婚しました。そしてまだ横須賀の米軍基地の敷地に住んでいました。その時に母と姉と私の3人で母の姉の家族に会いに行った時だったと記憶しています。まだ学校に入る前だったころだと思うので、かすかな記憶しかありません。
会いに行った後、帰りに横須賀駅(だと思いますが)で間違えて反対方向の電車に乗ってしまい、あわてて逆に乗り換えた、という記憶です。その時の電車の車両はまぎれもなく70系の車両の画像でした。
細かいことはまったくおぼえていません。

次に乗ったのは1974年の暮れです。

その年の夏に私は埼玉から東京に引っ越してきました。そして引っ越して間もない暮れに、埼玉時代の小学校の先生が「クラスのメンバーと新潟にスキーに行くので一緒に来ないか?」と誘われました。もちろん喜んで参加しました。

当時高崎線の電車はほぼ全車両が新性能車両でした。でも乗り換えた高崎からの上越線の普通列車は、何と古い70系車両だったのです。しかも当時の新潟色といって赤っぽい色と黄色のツートンに塗り変えられていました。

電車の内部はニス塗りで、旧性能電車らしいそのままの仕様でした。さらに一部の車両が昔の1等(今のグリーン車)仕様で、席がゆったりしてふかふかのソファーのような豪華な座席でした。それにゆられて高崎から石打まで延々と乗車しました。

最後に乗車したのは1975年の夏で、意外に身近な場所でした。

府中の地元の中学の先生が自分の出身大学の持っている施設が山梨県の上野原の山奥にあり、夏休みに泊まりがけでキャンプみたいなことをしに行った時の帰りの電車でした。

上野原はご存知のように高尾から電車で20分くらいの東京都との境の町でしたが当時はまだ結構田舎でした。鉄道の駅と町の繁華街も離れていて、駅に着くと「駅ー町」(街かも・・)というバスが止まっていて、どうもそれが頻繁に走っているようで、皆びっくりしました

そして駅からバスで1時間以上かからるその施設でキャンプのようなことをして泊まり、楽しいひと時を過ごし再び上野原駅に戻ってきました。

そして往きと同じように上野原から高尾まで3駅だけ中央本線に乗車しました。その時に乗車した電車が70系電車でした。しかも中央本線は近年までそうでしたが、塗装も昔のままで青、白のツートンで、これはその後活躍した115系にも引き継がれました。また車内の塗装も茶色い木にニスを塗りたくったレトロな車内で、東京のこんな近くでこんな車両が残っていたんだ、とびっくりしました。

結局70系に乗車したのはこれが最後になりました。

都落ちした70系はしばらくはあちこちで活躍していたようですが、いつの間にか全部新性能電車に置き換えられ、さらにその車両の殆どは解体されているようです。通勤電車として酷使されていたようなので致し方ないと思っています。

ちなみに写真はありません。
悪しからず・・。

※一部車両形式などで不正確な記述があるかもしれませんが、筆者の知識があいまいか、不足しているためです。ご承知おきください。

上の記事は他サイトにに2021年10月14日に掲載したものを移設しました。

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巷ではご承知のように日米金利差拡大などの影響もあり、為替レートが大きく変動しています。
その中でも特に気になるのは、日本円から見た、ドルとユーロの交換レートの逆転現象です。
ユーロ発足以来ほぼ一貫して、対円ではユーロが常時ドルよりも高かったのですが、最近は同じくらいになり、ここ数日はドルの方が数円高い状態が定着してしまいました。

まだ一時的な現象かもしれませんが、逆に拡大してしまう可能性もあると思っています。

それがどのような影響があるかは、私は経済の専門家ではないのでよくわかりません。
しかし少なくとも私が見たニュースや新聞の範囲では、この話がニュースなどで大々的に取り上げられたことはありませんでした。

私は1986年〜2003年くらいまで長く証券の営業をしていました。その時に1995年以降は外貨ものの商品が増えました。当時は大きな基軸通貨では対円でユーロは一番高価な通貨という認識でいましたが、その大前提が変わってしまったように感じます。

これはロシア・ウクライナの問題、コロナ、世界的なインフレの問題もあり、この為替レートの大きな変化がどのような結果をもたらすかは計りしれませんが、それを前提に考えていた国家や企業、経済母体がどれくらいあったのか?という問題だと思っています。

通常株や為替、商品などの相場は、想定外の大きな変化が起きると、過大に反応するというふうに感じています。
逆にいくら大きな変化でも想定内であれば、それは事前に予測され、その現象が起きても混乱が起きるケースは少ないと感じています。

過去も大きな倒産、戦争やテロ、大きな自然災害や疫病などでこれは証明されていると思っています。

私の中ではこの為替レートの逆転があらかじめ想定内なのか、もしくは予測に反しているのかが一番問題だと思っています。

実生活では直接貿易や金融取引などで関与している人たち以外は大きな影響はないと思いますが、このようにどんどん世の中の力関係や価値が変化していくこと自体に、あまり皆が注目していないことの方が気になります。

何か大きな力関係や経済の状況の変化の前触れ現象でなければいいと思っていますが・・。

この話には私の中では結論も善悪もわかりませんが、詳しい方の解説などを聞く機会があればと思っています。

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昔歌謡曲で大ヒットした曲に、曲名だか歌詞だかは忘れましたが「長崎から船に乗って神戸に着いた〜」という曲がありました。よく考えてみたら、長崎から五島列島の横をすり抜け、玄界灘を進み、関門海峡を通って瀬戸内海に入り、神戸まで行くというような航路は効率だけを考えれば、通常では考えにくいような航路です。実際にあったのでしょうか?

歌の世界の話なので、本当に航路があろうがなかろうがどうでもいい話なのですが、この間ふとこの歌が頭に浮かんできて、歌詞を口ずさんだ時に考えてしまいました。この曲は私が幼いころに流行った歌だと記憶していますが、今の今までそのようなことを考えたことはなく、ほんのたまに放送で流れたり、自分で思い出した時も特にそのまま、当たり前のように口ずさんでいました。

今考えれば、どちらも日本を代表する観光地でもあり、逆にこのような航路があったら、楽しいな・・、などとさらに思っています。

ただ、今流行りの豪華クルーズである必要もなく、最低限大型船であることは必要ですが、博多、下関か北九州、松山、広島、高松など主要な観光もできる大きな港町に寄港しながらのんびり過ごせることも重要です。そして料金は必要以上の設備を持たないリーズナブルであるということであれば、結構なニーズがあるかもしれない・・・、と思いました。要は今の観光産業の王道とは一味違う形式になります。

さらにたとえばその道中や船内で、芸能や芸術のコーナーなどがあれば、現状のコロナなどの問題に対する問題にも少しは貢献できそうにも思います。これは料金の高低とは関係なく企画可能です。

しかし現状の社会では、今は新しいツアー形態として定着しつつありますが、新しい企画には「これでもか」というほど自治体までが乗り出して大騒ぎして各地で歓迎セレモニーなどのいわゆる「おもてなし系」が主流になっています。

個人的な考えですが、今はどの地方に行っても、先行した企画が成功すると、他も同じような企画をして、例えば豪華絢爛で手法も画一的、しかも高額なものが主流になっています。もちろんこれは地元の関係者にとっては当然の戦略だとは思います。

しかし「旅」には色々なニーズや様々な人々が存在します。
正直に感じるのは、かりに合理的であっても、国中どこに行っても同じような企画や戦略で埋まっている、という印象すらあります。いくら理にかなっていてもあふれ返ると逆に飽和状態になるのでは?とも感じます。たまに見かけますが、よそと違うことをやった方が面白そうに感じるのですが・・。

たとえば現状では、今はほとんど衰退した夜行列車の風情や、お土産屋さん、古い旅館、駅前食堂、定期観光バス、地方の立ち食いそばなど古来からのやり方を守る歴史ある観光産業は今は風前の灯で、そちらのほうがむしろ旅行者の旅情を感じる要因にさえなりつつあります。

もちろんこれらは個人差があるのでそうでない方が多数なのも承知しています。でも上記のような懐古趣味やレトロ趣味のニーズは相当あると感じています。

なにしろ「旅」は非日常の活動なのですから、タイムスリップしたほうがいいという方も多いと思います。表題の話から記載した「安い船旅」もその一つになると思っています。むしろ素朴な旅の原型が残っている方がはるかに旅情を誘うのでは?と感じています。

もちろん耐震や清潔なトイレや食事などの環境、通信環境の維持は必要だと思いますが・・。

仮に淡々と長崎〜神戸を定期的に巡航する大型船の航路があれば、ぜひとも「乗りたいな」と思っています。‎

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第104回全国高校野球選手権大会(予選・本大会ー甲子園球場) に参加中!
高校野球の予選もだいぶ佳境に入ってきました。
私は基本的に高校時代に都立高校の野球部だったこともあり、公立高校を応援しています。
調べてみたら、今年はかなりの数の公立校が上位進出を果たしていることになります。
表題の都立高校はもちろんですが、全国の公立高校を応援しています。
全国の状況を現在の段階で調べてみました。

現在公立高校で甲子園を決めているのは秋田の能代松陽、香川の高松商、佐賀の有田工の3校です。
あと現段階では、鳥取県、島根県、徳島県、宮崎県では決勝進出校が両方とも公立校なので、どちらが勝っても公立校が甲子園出場になります。足すと今の段階では公立校の代表確定が7校ということになります。

2022年7月27日(水)AM8時50分現在のデータ
※すべてベスト4以上のみ記載
すでに代表決定で公立校が優勝
★秋田県:優勝:能代松陽、準優勝:秋田南。ベスト4秋田中央
★香川県:優勝:高松商、ベスト4丸亀、高松西
★佐賀県:優勝:有田工、準優勝で神埼清明

決勝進出校が両方公立校(公立校の代表が確定)
★鳥取県:決勝は倉吉総合産ー鳥取商、ベスト4で鳥取東、米子東(ベスト4はすべて公立校)
★島根県:決勝は飯南ー浜田、ベスト4で三刀屋
★徳島県:決勝は鳴門ー鳴門渦潮、ベスト4で城東、徳島商(ベスト4はすべて公立校)
★宮崎県:決勝は富島ー宮崎西、ベスト4で都城泉ヶ丘

すでに代表決定で公立校は敗退
★北北海道:準優勝で旭川東、ベスト4で滝川西
★南北海道:準優勝で知内
★青森県:なし
★岩手県:ベスト4で盛岡一
★山形県:準優勝で山形中央
★栃木県:準優勝で宇都宮南
★埼玉県:なし
★山梨県:準優勝で甲府工、ベスト4で甲府商
★石川県:ベスト4で鶴来
★岡山県:準優勝で倉敷商
★愛媛県:ベスト4で今治西
★高知県:ベスト4で中村
★大分県:準優勝で大分舞鶴、ベスト4で佐伯鶴城、津久見
★熊本県:ベスト4で熊本工
★鹿児島県:準優勝で大島、ベスト4で国分中央
★沖縄県:ベスト4で美里工

これから代表校や決勝進出校が決定
★宮城県:私立校の代表が確定、ベスト4で仙台南(辞退)
★福島県:決勝進出が光南、ベスト4で田村
★茨城県:私立校の代表が確定、ベスト4で境
★群馬県:私立校の代表が確定、ベスト4で利根商
★千葉県:決勝進出が市立船橋
★東東京:ベスト4進出が城東
★西東京:ベスト8進出が富士森▲(まだ準々決勝の状況)
★神奈川県:私立校の代表が確定
★静岡県:ベスト4進出が掛川西
★愛知県:私立校の代表が確定
★岐阜県:決勝進出が県岐阜商
★三重県:決勝進出が津商、ベスト4で菰野、松坂商
★長野県:ベスト4進出が小諸商
★新潟県:私立校の代表が確定
★富山県:ベスト4進出が富山商、高岡商、氷見
★福井県:私立校の代表が確定、ベスト4で若狭
★滋賀県:私立校の代表が確定
★京都府:私立校の代表が確定、ベスト4で乙訓
★奈良県:決勝進出が生駒、ベスト4で高田商
★和歌山県:ベスト4進出が桐蔭、和歌山東
★大阪府:私立校の代表が確定
★兵庫県:ベスト4進出が加古川西、社、長田
★広島県:決勝進出が尾道、ベスト4で広島商
★山口県:決勝進出が宇部工、ベスト4が下松工、南陽工
★福岡県:私立校の代表が確定、ベスト4で小倉工
★長崎県:私立校の代表が確定、ベスト4で波佐見、大崎

と、2022年7月27日(水)AM8時50分現在では、
公立高校の代表校が決定したり、確定しているのが7校
可能性として今後の結果しだいで公立高校が代表になるかもしれない代表が14地区あります。
ただ決勝の相手が全国的な強豪校の地区も複数あり、可能性の問題ですがすべてが代表になる可能性は小さいと思いますが、

とにかく善戦してくれることを期待しています。

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