サイト運営者日記「ぶらぶらうだうだ・・」

「タウンクリニックドットコム」「時代文化ネット」などサイト運営をするアナログ脱サラ(いつのまにか・・)親父のブログの何でも日記風ブログです。

当ブログは2018年3月よりURLが、
http://blog.livedoor.jp/chikao1216/
から
http://burauda.blog.jp/
に変わりました。サブドメインのため旧URLでアクセスしてもリダイレクトしてアクセスできます。
また名前も「サイト運営者日記・ぶらぶらうだうだ」に変わりました。

内容は「時代文化ネット」制作者が運営する日記で特にテーマはありません。
日常のサイト活動などにおいて見聞きした内容や、現在の社会や自身の生活などを通して感じたことなどをそのまま記載する形にこのたびリニューアルしました。
現在の掲載記事は以前の「穴狙い千ちゃん〜」「ちかお日記」に掲載されている記事をそのまま残してあります。
旧記事は「改修前」のカテゴリになっていて、「人気」???と記載があるのは人気があるかどうかは知りませんが、自分でまあまあ気に入っていた記事です。

鳩ヶ谷市

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偶然ネットで知人の歌手のスケジュール表を見ていたら、30日になんと鳩ヶ谷でライブステージがあると書いてありました。たまたまその方から別件のライブ情報件でメールの連絡が来た後だったので郷土自慢ではありませんが、どうでもいいようなメールを返信してしまいました。

私が鳩ヶ谷に住んでいたのは、年がばれるのであまり言いたくありませんが、昭和40年前後?から約10年以上でした。(曖昧な表現ですみません・・)個人的には生まれは大阪で、埼玉に移った後も小さい頃はかなり長い期間大阪に入り浸っていましたが、事実上鳩ヶ谷が出身地でもあり、育ったところといえるのかもしれません。

当時のことは記憶からかなり消えていますが、とにかく周りはほぼ完全に農業地域だった、という印象です。
住んだ場所は里というところの西公団という住宅でした。
ただ今の団地とちがい、2階建ての一応鉄筋ではありましたが、一軒一軒はせまい長屋風で、内装も白壁、木、石のたたき、くもりガラスというような造りでした。

住宅が出来たのは昭和33年で、当時は木造平屋やバラックしかない時代だったのでそれなりに新しかったのでしょう。
まだ鳩ヶ谷町だった時分の里という地区の端の、川口の西新井宿という地区との境の田んぼが切れて野山(安行など大宮台地の端?)が始まるところの丘の上に住宅は建っていました。
件数は120軒くらいで、公的な高校や病院以外は近所には田んぼと野山以外にはありませんでした。

子供は皆鳩ヶ谷小学校に通っていましたが、ほどなく山を降りた田んぼの中に里小学校ができて、私はそこに通いました。姉は2年までは鳩小に通っていました。里小はまわりはすべて田んぼで、通学の時は特に梅雨時だととにかくかえるの声がすごくうるさかったのを覚えています。

なぜそんなに遅れていたのかといえば、鉄道がなくどこの駅にもバスで30分くらいかかる場所でした。
同様に隣接している今も日本一の植木の産地で有名な川口市安行(昭和にはいり安行町から川口市に編入)やさいたま市緑区の大門(昭和40年手前くらいまで美園村でその後浦和市に編入。今はスタジアムのある浦和美園駅のある近辺です)なども武蔵野線が開通した後も農村のままでしたが、近年埼玉高速鉄道という都心直通の鉄道が開通すると急に大きく発展を始めました。

いつも出身は埼玉で、「ハトガヤ」というと「えっ?」「クマガヤ?」「コシガヤ?」といわれていました。
そして遂には平成の町村合併で消滅して川口市に編入されてしまいました。

育った頃は「陸の孤島」といわれていたようで、けっこう方言もありました。
人に会う時などは大阪弁は結構かっこうも評判もいいので、もとから関西の家系なのもあり幼少時に聞いていた片言の関西弁くらいはたまに調子に乗って話しますが、鳩ヶ谷で使っていた言葉は、結構はずかしく、いじめられるのではないかと思い、ほぼ完全に東京に来た時点で長年封印してしまいました。

近年方言ブームみたいなものがあって、懐かしさもありたまに口に出すようなことも出てきました。

距離的にあんな東京に近いのに、本当?
と思うかもしれませんが、本当です。それくらい周囲の地域と隔絶していました。

東京に転校していちばん驚いたのは、鳩ヶ谷では全校生徒で3〜4人くらいしか通っていなかった学習塾というものが、東京ではちゃんと近所などあちこちにあり、クラスの半分以上の人が当たり前に通っていたことです。
その時鳩ヶ谷では浦和とかの学習塾にバスで通っている生徒は、それを知られないように隠していたくらいで、ばれると「ガリベン」とか色々いじめられるネタにされていたくらいです。

10年位前に本当に久しぶりに仕事のついでに鳩ヶ谷に行ったときは、すでにもうありきたりな住宅都市になっていました。

今回のイベントも川口市鳩ヶ谷宿(昔日光御成街道の宿場でした)の〜イベントという、題名でした。

自宅だった住宅がすでに取り壊されていることもあり、懐かしい反面、少し寂しい気持ちにもなりました。

実際現在は鳩ヶ谷に関係した人はほぼ誰ともつながりが残っていません。
といいつつも他にも友達の絶対数が少ないので、もとからあまり多くのつながりはありませんが・・。

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前回書いた「鳩ヶ谷市消滅」において山野氏よりご指摘をいただきました。

私が、”安行が昔鳩ヶ谷同様一旦川口に編入された旨”および”安行が村から途中で町に昇格した”の二件は違っていて、安行は川口に編入され、分離をした事実はなく、その後の編入時に町に昇格しないまま編入された、とうことです。

まずはいい加減な記載をしたことをお詫びいたします。

これはどの県や町でも学校で自分の住んでいる町や県のことを専用の教科書で学習すると思いますが、私も同様の授業を受けました。そのときに教科書で勉強した内容を、憶えているつもりで書いたものでした。

まったくでたらめに書いているわけではありませんでしたが、かなりいい加減な過去の記憶を元に検証などをしないで書いてしまいましたのでこのような記載をしてしまいました。

具体的には埼玉県民の方は皆知っていると思いますが、「郷土さいたま」という教科書と地元だけの「はとがや」という教科書のおぼろげな記憶をもとに書いたわけです。
昭和35〜40年ころの再編は当時は住民にとっても周知の部分もあり大きな間違いは無いと思いますが、昔の再編は取り違えて間違って憶えていたということです。

いずれにしてもひじょうにお詳しいですね。他のコメントを読んだ範囲では地縁のある方ではないようなのでよく勉強されているのですばらしいと感じた次第です。

私も地理的なことはひじょうに好きだったので、一時地名辞典などを買って自分で勝手に研究したこともあります。
特に川や土地利用などについての関心が高く、地方に行く列車に乗るときはどの川をどこで渡るか、など他の人には同でもいいようなことにも興味がありました。
土地利用も同様で、首都圏や関西圏などの国土地理院の地形図などを買い23区内にどれくらい農地が残っているかなどを調べたこともあります。

マニアックな話はそれくらいにして、今日は表題のテーマで少し、十分マニアックですが・・

東京の西多摩に多摩川の支流で秋川という川があります。
この川の呼び方は、これだけ情報が行き渡った現在でもかなり誤認されているように思います。

都内でもこの川の名前を「あきかわ」と呼ぶ人がきわめて多いからです。
最近はNHKなどでは徹底していますが、民放では下手するとアナウンサーでも「あきかわ」と呼ぶのを見かけます。

この川の正式名称は「あきがわ」です。
地元では皆かならず「あきがわ」といっています。この川を「あきかわ」というと西多摩ではもぐりだと思われる一番の指標になるくらいです。

私はたまたま立川の職場で7年くらい働いていました。
しかもお客さんの多くがこの地域(福生、秋川、八王子)に集中していたのと、これもたまたまですが、地域内に住んでいる女性と何年かお付き合いしていたというのもあり当時はその文化にどっぷりつかっていました。

八王子から青梅に抜ける国道411号も「あきがわかいどう」、旧秋川市も「あきがわし」(現・あきるの市)です。

一番よく間違われるパターンはテレビなどで「あきかわけいこく」という人がきわめて多いことです。
でもそのほうが言いやすいですし、ゴロもいいよな、とは思います。

人名も秋川さんという人は殆どというか皆「あきかわ」さんであり、逆になぜこの川の名前だけ「あきがわ」なのかどちらかというとそのほうが不思議なくらいです。
そういえば秋川市も消滅したんだった・・

それから道路や特殊な地名の地元での呼び方(通り名、通称)も結構面白い(俺だけ?)と思っています。

たとえば前述の多摩地区でいうと、
府中市に分倍河原という駅がありますが、地元の学生や地元に密着している人、ほぼ全部に近いくらいの人が「ぶばい」と呼んで、下の「かわら」つけないで呼んでいます。
もとから難読の駅名のひとつですが、これには大きなわけがあり、
分倍河原という駅名はいわゆる「分倍河原の合戦」の部分をとっているのではと思われるからです。
この地域は多摩川が暴れ川だったため、あちこち流れを変えていたようで、下河原、中河原、宿河原など河原がつく地名がたくさんあります。

ただ現実には地元の町名や字名などでは中河原、分倍河原、下河原などという名前はもう存在しなくなっています。

分倍河原近辺には分梅(ぶばい)町という地名が残っています。

そのため地元では今流行の略式などではなく、逆に今の正式な町名も含めていることと、近辺に河原という地名が多くいちいちつけると面倒くさいので「ぶばい」と呼んでいるというところだと思います。

ここまで読んで「そんなことどうでもいいじゃない・・」と思う方が殆どだと思いますが、
これが不思議なもので、よそから来た人も皆その「ぶばい」という呼び方が心地いいみたいで
慣れてきたり、一回でもそういうやり取りをすると殆どの人は「ぶばい」といういうようになるから不思議です。

地名なども心地良く言えるということも大切なのかもしれませんね。

また話が飛びますが、大阪の国道で大阪市内から、池田、宝塚付近をぬけて、三田、篠山、福知山から舞鶴方面に「国道176号線」という道路があります。
ナンバー国道ではありませんが、宝塚から先の山間部は山が険しくこの区間を抜ける大きな道路はこの道しかなく、また休日でなくても慢性渋滞でも有名になっています。

実は三田や宝塚辺りの人たちはこぞってこの道を「いなろく」と呼んでいるようです。
176だから「いなろく」たしかに、うまい言い方です。

東京近辺では街道名や、たとえば20号線、246とかそのままストレートで呼ぶのがほとんどなので、やはり関西の人たちは少しでもアレンジして呼ぶという文化なのでしょうか。

これもご存知の方が多いと思いますが、東京の多摩東部に「東八道路」というのがあります。
これはいわゆる公式な通称で、認定された通り名なのですが、以前この道路のすぐ近くの高校に通っていましたが、当時地元では「東八道路」という人はほぼ皆無で、皆「30メートル道路」と呼んでいました。

だから今、ほぼすべての人が「東八道路」という状態になってもすごく違和感があります。

また鳩ヶ谷の話になりますが、国道122号(日光御成街道)が東北自動車道につながるようになって便利になりましたが、当時東北自動車道を地元では東北自動車道とよぶひとはいませんでした。
なんと呼んでいたかというと「東北縦貫」と呼んでいました。

今はそんな呼び方をする人はまったくいないと思いますが・・。

そんなこんなでまたどうでもいい話に終始してしまいました。
もう夜が明ける・・・

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全然知らなかったのですが、今晩ニュースで表題の話が流れ大変びっくりしました。
というより少しショックです。

最近の大きな市町村合併・統合の流れでしょうか、埼玉県の鳩ヶ谷市が10/11から川口市に吸収合併されることになりました。

私は特に故郷もない人間でこのようなことをいうのもおこがましいのですが、鳩ヶ谷市では多感?な少年時代を10年以上過ごしました。

「君は育ちはどこなの?」といわれれば、
「え・え〜っと」と少し考えながらも「やはり埼玉県の鳩ヶ谷市ですかね」
というと思います。

といいながらも流れ者の私は東京都在住は30年を超え、人から見たら正真正銘の東京人であるとは思いますが・・

以前仕事で浦和の美園に行った時、自分の昔住んでいた住宅が取り壊されて高層住宅になっていたことをブログにも書いたことがあります。
当時は昭和30年代にできたコンクリ(とは言いがたいバラック風のものでしたが・・)長屋風の建物でした。多分当時から住んでいる人は殆どいないのではと思います。

そのときに続き、街の名前さえも市町村名からは消えてしまうことになったわけです。

これからは
「君は育ちはどこなの?」といわれたときは、
「え・え〜っと、何て言ったらいいかなあ」と独り言を言いながら
「埼玉県の川口市の、あの、知ってます?昔は独立していたんですが・・、鳩ヶ谷っていうところを?」

と言わなくてはならなくなりました。

今はそこそこ知られているでしょうが、10年も経てば

「はあ??、何それ?知らねえな、詳しくわかるように説明しろよ!」
と言われるでしょう。

それでなくとも昔から、
「鳩ヶ谷です」というと
「ああ、ああ、わかる熊谷ね」

とよく言われました。

今回川口市に併入されましたが、この地域は数奇な運命をたどっています。

もちろん大昔は殆どの町は細かく区分けされた地域別の町や村で構成されていたようです。
ただ川口市というのはご存知の通り、昔から鋳物が盛んで、県内でもいち早く市制が施行されたようです。

その時は当然川口駅を中心とする中心部だけだったみたいです。

今川口市になっている北部や東部の農村部、いわゆる安行地区はまったく別で安行村など全然別の共同体でした。

戦後すぐの大きな町村合併などで安行や今回の鳩ヶ谷も含む地域もすべて一旦すべて川口市になりました。

もとから鳩ヶ谷市は足立区の入谷地区以外は県内ではすべて川口市と隣接していて、川口市の中にすっぽり入っている形でしたので当然と言えば当然のことだと思います。

ところがその後一度鳩ヶ谷は川口から分離、北足立郡鳩ヶ谷町となりました。安行などもそのとき一回分離出され北足立郡安行村(のちに安行町)になりました。

それがまた高度成長の大きな市町村合併で安行が再度川口市に編入されました。多分昭和40年になる寸前くらいだと思われます。
そのときに浦和東部でいわゆる大門といわれていた地域で独立していた美園村も浦和市に編入されたようです。

鳩ヶ谷、特に、私が住んでいた里(大字の名前です。いかにも・・という名前ですが)はこの安行は歩いてすぐで、大門(美園)などもひじょうに身近な地域でした。

そして安行や美園が消滅したことで鳩ヶ谷だけが独立した状態で川口や浦和などがどーん、とある中でぽっかり存在していました。
もう孤立していると言ったほうがいいのかもしれません。

そしてついに今回の合併です。いかにも合理的でなるべくしてなったという話でしょうがないとは思いますが、やはり少しだけさみしい話ですね。

鳩ヶ谷は埼玉高速鉄道が開通するまで、長年鉄道がなく、経済的にも文化的にも大きく遅れをとっていました。

サイギン以外まともな都銀やスーパーもできたのはだいぶ後でした。

一番驚いたのは、会社に入った後にたまたま赤羽にいた友達と遊びに行き相当振りに当時の住宅の友人に紹介して会ったとき、国道(122号)沿いのデニーズが23時で閉店してしまったことです。
都内では当時はありえない話でした。

言葉は東京に近いので殆ど東京弁ですが、当時は隔世された閉鎖社会なので実は地元では下記のようなことばを使っていました。

「あいけんえし」「とりとり」「みったねえ」「はっとばす」などなど

これが方言なのかはわかりませんが、ほぼこれが全国共通の言葉と信じ当たり前に日常使っていました。
大体はわかると思いますが、意味わかります?

以前一部はこのブログでも触れましたが、最初のことばはネットで調べたら、なんと「埼玉県鳩ヶ谷市で使われていることば」とあるサイトに出ていました。

「ええ?他の町でも使っていないんだ、うちの町だけなんだ」

これにはびっくり、会社の同僚で浦和の原山のやつがいたので、聞いてみたら
「はあ?知りませんよ、そんな言葉」
と言われてしまいました。

そういえば与野も同じ運命だったね、でも与野は政令指定都市だからね・・

「鳩ヶ谷、頑張れ!、鳩ヶ谷万歳!!」

もう手遅れです・・


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