さきほど競馬のグリーンチャンネルの競馬場の達人を見ていたら、なんと、昔の阪急ブレーブス(現オリックスで近鉄に吸収される)の主軸の長池、加藤秀がゲストで出演していました。
私は小学校で野球を始めましたが、当時からずっと阪急のファンでした。特に黄金時代の昭和46年〜53年の時期は熱狂的?なファンであったと思っています。リーグ優勝6回、日本一3回とまさに当時よく言われた「人気のセ、実力のパ」をほうふつとさせる時期でした。
灰色の球団、関西にも殆どファンがいないチームといわれた地味なチームカラーが大好きでした。
そもそもなぜファンになったかというより、幼少の頃に身の周りで見たり聞いたりするのは、バスも電車もタクシーも阪急で、馴染みがあって親しみを持っていたせいだと思います。
何をかくそう、私は小学校の途中まで、野球などというものは全く興味がありませんでした。
住宅のせまい広場で、カラーボールというおもちゃのボールで仲間と、たまに遊んでいたくらいでした。
ところがある日、住宅の中のこわいこわい大先輩たちが、野球遊びをしていた私たちを呼び出したのです。
「おい、おまえら今日から野球部に入れ、明日の日曜日から練習だから朝5時に広場に来いよ!」
当時はかなり恐いと恐れられていた先輩方で、絶対服従の命令でした。
そうこうしているうちに結構野球が楽しくなってきて、先日書いたように大してうまくはなりませんでしたが、高校までは続けました。
その当時の阪急の3番が加藤秀で4番が長池で、私にとっては雲の上のスパースターだったわけです。
加藤はとにかく2ストライクまでは雑なバッティングなのに2ストライクになると豹変して渋太いバッティングを見せました。常に首位打者を争っていました。
長池はそのときのパリーグでは一番のホームランバッターで他チームの大杉や張本、野村、永淵などをしのぐバッターでしたが、バッターボックスに入ると、必ず左肩の上にアゴを引っ掛けて、くぃっ、とアゴを引き寄せるポーズをするので、子供たちの間ではこれが結構うけて皆でまねをしたりしていました。
話が長くなりましたが、彼らは引退以来殆ど公衆の前に顔を見せることはなかったので、ビックリというより、大変な驚きでした。
しかも何で競馬場の達人なの?という感じです。
ビックリ・・ビックリ・・です。
私は小学校で野球を始めましたが、当時からずっと阪急のファンでした。特に黄金時代の昭和46年〜53年の時期は熱狂的?なファンであったと思っています。リーグ優勝6回、日本一3回とまさに当時よく言われた「人気のセ、実力のパ」をほうふつとさせる時期でした。
灰色の球団、関西にも殆どファンがいないチームといわれた地味なチームカラーが大好きでした。
そもそもなぜファンになったかというより、幼少の頃に身の周りで見たり聞いたりするのは、バスも電車もタクシーも阪急で、馴染みがあって親しみを持っていたせいだと思います。
何をかくそう、私は小学校の途中まで、野球などというものは全く興味がありませんでした。
住宅のせまい広場で、カラーボールというおもちゃのボールで仲間と、たまに遊んでいたくらいでした。
ところがある日、住宅の中のこわいこわい大先輩たちが、野球遊びをしていた私たちを呼び出したのです。
「おい、おまえら今日から野球部に入れ、明日の日曜日から練習だから朝5時に広場に来いよ!」
当時はかなり恐いと恐れられていた先輩方で、絶対服従の命令でした。
そうこうしているうちに結構野球が楽しくなってきて、先日書いたように大してうまくはなりませんでしたが、高校までは続けました。
その当時の阪急の3番が加藤秀で4番が長池で、私にとっては雲の上のスパースターだったわけです。
加藤はとにかく2ストライクまでは雑なバッティングなのに2ストライクになると豹変して渋太いバッティングを見せました。常に首位打者を争っていました。
長池はそのときのパリーグでは一番のホームランバッターで他チームの大杉や張本、野村、永淵などをしのぐバッターでしたが、バッターボックスに入ると、必ず左肩の上にアゴを引っ掛けて、くぃっ、とアゴを引き寄せるポーズをするので、子供たちの間ではこれが結構うけて皆でまねをしたりしていました。
話が長くなりましたが、彼らは引退以来殆ど公衆の前に顔を見せることはなかったので、ビックリというより、大変な驚きでした。
しかも何で競馬場の達人なの?という感じです。
ビックリ・・ビックリ・・です。