新年おめでとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。
昭和時代の鉄道全盛期時に大活躍した急行列車の変り種やつわものを思い出してみました。
参考は昭和48年時刻表です。キロは営業距離です。
私見ですが5列車ほど順番にとりあげてみたいと思います。
盛り上がらないままついに第1位です。
◆大社号
栄光?の第1位は急行大社号です。
この列車は意味不明、複雑怪奇、何のために?どのような経緯で運行が始まったのかきわめて理解に苦しむ列車です。
それくらい変り種で、ほかに類似したパターンの列車は昔も今も存在しないと私は思っています。
また一部編成は途中山間部のスイッチバック等ではないのに三回も方向転換するというところも変り種のひとつです。
とにかく国鉄、JR史上まれに見る異色列車であったと思っています。
★運行は名古屋・金沢〜出雲市(下りは大社まで)
運行内容を下り列車で説明すると、
列車は全9両編成ですが、1〜5号車は金沢始発、6〜9号車は名古屋始発です。
車両は当時のキハ58などの一般急行型の気動車です。(形式は明確にわかりません・・)
・金沢発
朝の9時20分に金沢を列車は出発します。北陸本線を走り、敦賀に11時11分着、ここで名古屋発の列車と合流、併結されます。
・名古屋発
金沢発より一足早く、9時10分に出発します。東海道線で米原に10時19分に到着、ここで第1回目の方向転換をします。
10時25分に発車して北陸本線で敦賀に。金沢発より先の11時02分に到着して金沢発の編成を待ちます。
・敦賀から併結
名古屋からの編成はここで第二回目の方向転換になります。
敦賀から併結され9両の長い編成になった大社号は11時28分に敦賀を発車します。
ここからは小浜線に入ります。そして東舞鶴から舞鶴線で一駅の13時09分に西舞鶴に到着します。
西舞鶴からは宮津線に入ります。そして15時18分に豊岡着です。
ここでまた再度名古屋編成は第三回目、金沢編成は第一回目の方向転換をします。
豊岡を15時18分発で、ここからは一路出雲地方を目指し、山陰本線に入ります。
・途中で編成をスリムに
列車は山陰本線をひた走り16時54分に鳥取に到着します。
するとここで金沢からの編成のうち1・2号車を切り離してしまいます。
7両編成になって出発して18時32分に米子着です。
ここでさらに金沢からの残りの編成3・4・5号車も切り離してしまいます。
ということは金沢方面から乗車して米子以遠に行く人はここで名古屋からの編成に乗り換えなければならなくなります。
そういうお客さんがいたらの話ですが・・
そして5両編成になった大社号は19時41分に出雲市に到着します。
ここで急行列車としての運行は終わりになり、普通列車として大社線に入り119時56分に終点の大社に到着します。
名古屋から延々10時間46分の旅がここで終わります。
上りも全く同様ですが、始発は大社ではなく出雲市になっています。
★なぜこんな列車が、誰が乗るの?
ここが一番不可解なのですが、思うに昔は成田さんとか、創価学会の富士宮詣とか大きな神社、仏閣、宗教団体などは全国に信者が散らばっているのでそのような人たちの参詣用に始まった列車なのではと想像します。
成田さんなどは今でもそのような列車が臨時ですが多数運転されています。
たとえばなぜ宮津線なのか?というのも、この間ツアーで山陰を回ったときに丹後地方は出雲地方の文化が広く浸透していて家のつくりなどでもその名残が残っているとガイドさんが説明していました。
つまり信者が比較的多い地域を通るためにわざわざ遠回りしてでも運行するというかんじなのかも知れません。
またこの付近は天橋立など著名な観光地もあり、金沢や名古屋からだとこのダイヤであれば観光列者としても使えたのではと思います。
あとは地域都市間の輸送列車としての役割も担っていたのでは思います。
ひとつの運用で金沢ー敦賀、名古屋ー米原〜敦賀。敦賀ー小浜・舞鶴、豊岡ー鳥取ー米子ー松江ー出雲などです。
長距離運転なので相当な数の都市間輸送に対応できるのではと思います。
そして下りは出雲市から大社までの大社線の通勤通学用帰宅用の普通列車としても機能します。
参詣列車としての当初の目的があるとすれば、少なくとも往路にあたる下りは大社まで行かないと意味がなくなるので下りのみ大社行きというのもうなずけます。
逆に上りは出雲始発で、大社発ではありませんが、これは運行距離が長く朝に出発しなければならず、朝イチで大社からの帰りの参詣客が乗車するニーズはほとんど無いと想像できるのでこれも納得できる話です。
大社線はすでに廃止になりました。前述のツアーで出雲大社にも行きましたが、大社に到着寸前に廃止になった大社駅の堂々たる駅舎をバスの車窓から眺めることができました。
国の重要文化財になっているそうです。
大社号という名前でありながら上りは大社からではなく出雲市発というこの変り種列車ですが出雲大社自体日本の神社の代表格であり、出雲市発着というだけでも十分大社号と名乗ってもいいくらいなのかもしれませんね。
結局主体になっていた名古屋編成は昭和57年に廃止されてしまいました。
その後は金沢編成も含め、一部区間だけ別列車に分割されてしまいましたが、全国的な急行列車の衰退や小浜線電化の流れで派生的に残っていた部分も廃止されてしまいました。
こんな列車が今も存在したら結構楽しいですし、それが逆に目玉になって人が集まるかもしれないと、私はそんなふうに思います。
コメント
コメント一覧 (24)
急行大社号について何気なく検索していて、このページに来ました。
私は小学校1年から4年まで丹後半島の峰山に住んでい真下。母の里が金沢で、「大社」にのって里帰りしました。小学校5年の時島根県出雲市に引っ越ししたため、今度は出雲から金沢まで、約10時間「大社」で金沢まで往復しました。ご存じのように豊岡、舞鶴での方向転換、行き先が違うために途中で車両内の移動、少なくとも2食は駅弁、日本海を一日中眺めながらの旅を満喫出来ました。飛行機での移動とは全く異なる、のんびりした旅でしたが、今でも忘れる事が出来ません。
子供心には進行方向が変わるのは大きな驚きで、これで無事に目的地へたどり着けるのか?と真剣に考えたものです。
車窓から見える夏の日本海の風光明媚な景色は夏の良い思い出となりました。
私にとっての懐かしいセピア色の急行列車です。
また天の橋立観光にも利用していました。
1等車(もうグリーン車になっていたかな?)はがらがらで、私たちを含めて3組ほど新婚さんが乗っているだけでした。もう1度同じコースをたどってみたいと思っているのですが、所要時間を考えると、小浜線経由はちょっと無理で、京都回りになりそうです。
途中の小浜線、宮津線沿線の海水浴客輸送のために
車内はいつもにぎわっていました。
大社号の少し前を姉妹列車で季節運行の急行エメラルド号と言うのもいました。
それだけ、名古屋からの海水浴客が多かったのでしょう。
敦賀での金沢編成との(のちに福井発になったと思います)連結時に到着したホームから別のホームに転線したのでホームでお買物などしていた時には列車がいなくなってあわてた人もいました。
後に転線はしなくなりました。
天橋立で必ず上り下りが行き違うので
ある時などは、父がわざわざ名古屋から下りに乗って上り列車に乗り換えて来て帰省帰りの私共母子を迎えに来た事もありました。
長い10時間でしたが
楽しかった
もうこんな列車には乗れないでしょうねえ
敦賀で降りて忘れ物に気付き、再び乗車して扉が閉まりました。「おかしやさん」のおっしゃる「転線」に閉じ込められたのでした、小学生にはヒヤヒヤでした。金沢編成が先に到着していたのを覚えています。なぜかその金沢編成の後ろ側(金沢方面)に名古屋編成を連結する手順のようでした。降りたら、駅員と母親がニコニコして泣きっ面の自分を見ていました。
笑える運用版で、同時期の仙台⇒羽後本庄「もがみ」も面白いです。多層DCは、乗っても時刻表上でも楽しいです。
特にこの記事昭和48年頃の時刻表をもとに、作られたみたいですが、めっちゃリアルですね。私は鳥取生まれですが、縁があって金沢の大学に進学しました。昭和51年から昭和55年頃まで、受験〜帰省まで何回『大社』を利用したかわかりません。40年近く昔の、私にとっての青春を乗せた、懐かしい列車です、前面がぺたっとしたキハ系の車体(L特急の雷鳥も同じようなデザインでしたが、前が突きだしてましたね)…アイボリーに赤いストライプの車体でした。鳥取〜山陰線〜宮津線〜小浜線〜北陸線をまたがって運行されていたんですね。国鉄時代を象徴する列車ですね。今ではあり得ない運行です。敦賀駅で停車中、結構待たされた記憶があるので名古屋行きと切り離していたんですね。進行方向も変わりました(豊岡では変わってなかった記憶があります)鳥取〜金沢は1日がかりで、舞鶴や宮津、高浜や敦賀、武生など、時には車両に私一人で雪景色の中をゆっくり揺られるディーゼル車の旅はもう二度と味わえないのでしょうか。何か銀河鉄道の旅のようでしたね。もう40年近い昔の思い出です。
ふと昔懐かしい急行の名前を思い出して検索したらこちらへ。
石川県に住む私は幼い頃、この列車に乗っていた・・・と思います。正確には急行「大社」になる前の普通列車に。金沢発の前は能登半島を走る七尾線普通列車として金沢に行き、急行の表示になって「大社」号になっていたと思います。母の里が島根県で、里帰りの時、最初に乗る普通列車の車内アナウンスで、この列車は大社号になると伝えていたかと。このまま乗っていてもいけるんだと思った記憶があります。かすかな記憶ですが。
そうそう、直下型トイレでしたね。線路の間に使用済みトイレットペーパーがあったりして(笑)。
鉄くさい車内や駅での香りも懐かしいです。
「大社」のようなのんびりした長距離列車は無くなっちゃいましたね。車窓から見た久美浜湾の美しい風景は今でも忘れられません。
ちなみに、松江までは京都から鈍行で行きました。
急行「大社号」は、大体中間地点の西舞鶴車掌区(京都府)の車掌が客室乗務していました。
一日目は上りで、名古屋に泊まり。
二日目は下りに乗務し終点出雲まで乗務していたような気がします。で二泊目。
三日目は、上りで、西舞鶴で次の乗務員と交代。
余談ですが四日目は、夕方の特急あさしお号で京都泊、五日目は城崎、豊岡まで行き折り返して西舞鶴駅で下車。
六日目は、休み。
このローテーションを盆暮れ正月関係なく何年も繰り返していました。
わたしの子供時代は、登校するときは父がいても次に帰ってくるのは三日後。父が帰ってきても次の日の夜はいない。六日周期だから日曜日もほとんど父はいない毎日でした。
今では懐かしい記憶です。ほんとに。
小学校4〜6年の間、海水浴を目的に父の会社と契約していた民宿に泊まりに若狭湾へ行きました。
4年生の時、急行大社に乗り若狭和田で降りたんですが、全車両がホームに入りきれなかった事を覚えています。
急行大社で往復したのは4年生の時だけ。翌年から急行エメラルドを利用しました。
6年生の時、若狭和田の駅前に人が溢れていて、何だろうと思ったら、山陰本線で事故があり、急行大社の4時間遅れが原因でした。
長距離列車ならではのハプニングですね。
4年生の時、敦賀駅で金沢から来た車両との連結を間近で見られて感激した事を思えています。別々の場所から来た列車が合体して1つの急行列車になるんですからね。
急行大社が懐かしい。
敦賀での併合は、名古屋発の4輛は、4番線に一旦入線し福井方面つまり北陸トンネル側右手に待避線に入って、金沢発の5両編成が4番線に入線を待ち、そして、待避していた名古屋発の4輛を4番線に入線し、連結し、ここで1号車〜3号車・8号車・9号車=自由席、4号車と7号車=🍀車💺、5号車と6号車=普通車💺の堂々の9輛編成になります。ところが・・・❗️小浜線の大社の停車駅である美浜・三方・小浜・若狭高浜・(季節停車に若狭和田)のうち、美浜・三方・若狭高浜・(季節停車に若狭和田)有効長が2輛編成分足りず、到着のさい、車掌の案内で、後ろの2輛はドアは開きません。前の車輌からお降りください。と言う始末でした。
昭和48年7月下旬、小学5年生の夏休みに入ったばかりで、生地の金沢から西舞鶴まで乗りました。当時、綾部に住んでいた叔母夫婦を訪ねての旅で、西舞鶴駅まで出迎えに来てくれていました。敦賀で北陸線を離れて、開けた窓から見えた単線のススキの青い葉を分けるように走る気動車の車体が忘れられません。西へ西へと金沢が遠のくにつれて、次第に心細くなり、それでも一人旅なんだという誇らしさがないまぜとなって、たった一度きりの乗車ですが鮮明に覚えています。
いま想えば、北陸と中京の車両が敦賀で合流して、山陰まで走っていた。とくに金沢発着は、日本海側の遠い街と街とをつなげていた。とても便利で、鉄道の使命と旅ロマンにあふれる名列車ですね。現代でも、もし存在していたらぜひとも乗りたい大社号です。
私たちは名古屋発だから若狭和田で降りた時に車掌さんに前の車両に移って降りる様に促されました。
もしかして、だけど車掌さんは「父は大社号に乗務していました」さんのお父さんだったかもしれませんね。
最近、金沢へ旅行を計画しています。
高校性の時、夏の県予選で負けた後、仲間と敦賀へ海水浴に行きました。敦賀から帰る時に大社号に乗りました。
敦賀で昼食を取り思い出の場所に立ち寄って金沢へ行くルートを計画してたら大社号を思い出しました。
このルートで旅した人が、もしかしているのかな。
昭和44年〜50年頃まで、名古屋-若狭方面へ何度か利用しました。
由良川鉄橋では徐行して専務車掌さんの観光アナウンスがあったのを覚えています。
名古屋からの長距離急行には赤倉(新潟行き)もあって、長距離DCの旅が楽しい時代でした
皆様のコメントを読んで色々と記憶が蘇ってきました。
1970年に就職して福井市の営業所勤務となり、若狭地方の得意先に行くのに大社号を利用しました。
福井市から午前の大社号に乗って行き、短時間で仕事を終わらせて午後の大社号で帰るという慌ただしく効率の悪い仕事でしたが、帰りは敦賀で蒲鉾と缶ビールを買って、車内で読書と昼寝ができるという今では考えられないのんびりとした旅?でした。
車掌さんが車内放送で車窓の名所旧跡を観光案内をしてくれるという、国鉄ものんびりしていた時代です。
下りの大社行きですが、最後に出雲市駅で9号車を切り離しをし、残りの6・7🍀・8号車の3輌編成で普通列車で🍀車は🍀自由席になり、終点の大社に到着となります。
下りの大社行きですが、9号車を切り離した後、出雲市駅を方向転換して大社線に乗り入れです❗️以上❗️
出雲市駅のスイッチバックはありません🙇💦
お詫びして訂正致します🙇💦
また、急行【大社】の様な列車が復活して欲しいですね🙋✨🎵
福井⇔小浜間。
その初めての1人で乗った列車が、急行【大社】でした🙋✨🎵
鉄道少年だった小学生の頃、祖母から「用事のある富山から、出身地の松江までどう行ったら良いか」という相談を受けたので、この列車を利用することを勧めました。
ちなみに、その時の行程は、新宿⇒松本⇒糸魚川⇒富山⇒加賀温泉⇒松江⇒岡山⇒東京という長大なものになりました。今時、そういう旅行をする人はマニアだけかもしれません。それだけの余裕は、羨ましいと思います。